ぼくは、徳川家康の末裔なんです。
とかいうと、だれでも「ほう……」となりますね。
あ、ぼくはちがいますよ。たとえば、の話です。
でもよく考えたら、いまこの世界に生きているひとは全員、だれかの末裔なんですよね。
家系図が残っているかどうか、とか、歴史的に有名な人物かどうか、というだけの話。
「記録になければ、ないのと同じ」
というのは、明らかに非科学的です。ばかが言うことだ。
だったら、ずっと文字のない国のひとはどうなるんだ。
こんなことをフト思ったのは、家系図が出てきたからなんですよね。
でもそんなに昔まではなかったです。
江戸時代の後半ぐらいまでしか、わかりませんでした。
それでも、家系図を見ていると不思議な気持ちになります。
ぼくには両親がいて、その両親にも両親がいて、それにもまた両親がいて……
なんだか、気が遠くなりそうな感じがします。
ずっとずっとさかのぼっていくと、「最初のヒト」に、かならず行き着くのですよね。
これは「かならず」なのです。
例外はない。
そしてこれはもちろん、ぼくだけじゃないです。
いまそこを歩いているおじさんも、さっき走っていった女子中学生も、あそこで立ち話をしているおばさんも、全員、全員、そうです。
ある日突然、CGみたいに「ぱっ」とこの世に登場したひとなんかいません。
それが誰だかわからないということはあったとしても、絶対に必ずだれかの子としてこの世に出てきた。
つまり、ぼくたちは全員、複雑で巨大な生命の樹の最先端にいたのです。
さまざまな淘汰を経て生き残ってきたものたちの、子孫なのであります。
あたりまえのことだけど、あらためてこれを考えてみると、これはすごいことだと思いました。
生命の脈が、一回も途切れていないのです。
この世には「完全」ということはほとんどないと言いますが、こと、これに限っては「完全」なのです。
国が変わったとか、記録がないとか、出自が不明ということはあったとしても「経脈そのもの」は、ただの一度たりとも、途切れてしていないのです。
すごくね?
完全、ということはファンタジーに近いことなのに、いま、ここに、まさに、あった。
ぼくたちは全員「完全の子」だったのです。
人類が何万年前に出たかわからないけど、1億年ぐらい前じゃないか、という説もあります。
そこから一回も、まちがえず、残ってきたものの末裔。
戦争とか、飢饉とか、病気とか、天災とか、事故とか、いろいろあったけれども、それでもなおかつ、しぶとく、しぶとく、生き残ってきたわたしたち。
これは、妄想とか想像とか詭弁ではなく「事実」なのですよね。
あきらかな、事実。
なのにぼくたちは、ときに気弱になることがあるのです。
「わたしは、弱い」
「わたしは、だめだ」
んなことあるか!
そんなわけは、ないのですよね。
もちろん、得手不得手はあります。
あるけれど「弱い」のでは、ないのですよね。
1億年の時を経て、ずっとずっと生き残ってきた種の、末裔なのです。
弱いわけが、なかろーも。
心配性や神経質も、りっぱな「強さ」なんだそうです。
そういった用心深さ、注意深さがあったからこそ、よけいな危険を侵さないで、ちゃんと生き残ることができた。
なのにどうも、最近は蛮勇さえも「強さ」と考える傾向があります。
なにも気にしない、なににも気づけない鈍感さを「強い」というようになった。
これは、まちがえている。
蛮勇や鈍感は、生存確率を下げてしまうから。
社会の価値観に左右されると、本物のすごさが、見えなくなってしまうんでしょうね。
記録に残っていなければ、家系は「ない」。
それは、完全なる「まちがい」です。
文書主義という、ある種のイデオロギーに立脚した考え方にすぎません。
んなわけあるか。
記録にあろうがなかろうが、血は脈々と受け継がれてきた。
有名人がいようがいなかろうが、血は脈々と受け継がれてきた。
しょうもない、有名とか無名とか、国とか、記録があるとかないとか、そんな「不確実なもの」に、血脈という「確実なもの」は、説明できない。
じぶんのことを弱いとか、価値がないとか、そんなことを言ったり思ったりするのは、傲慢すぎる。
1億年の時を経て、1回たりともあやまたず、確実に、正確に受け継がれてきたこの血脈を、しょうもない価値観で汚してはいけませんね。
いまここに「いる」だけで、全員がだれかの直系であり、人類の最終形態であり、最前線であり、最重要である。
だからそんな自分もヒトも、傷つけたり殺したり、卑下したりしてはいかんですね。