ぼくは自分で自分のことを「神経質だ」と思っていました。
パニック障害になる人はそういう人が多いというし、たまに人からそう言われることもあります。
なのでぼくは神経質だと思っていたし、またこの神経質さがパニック障害や自律神経失調症の原因だとも考えていました。
しかし。
ぼくは最近、自覚してきました。
ぼくは神経質どころか、むしろ無神経だった、と。
毎日掃除をするようになってから、いかに「ちゃんとしていなかったか」を、見せつけられるような思いがしています。
毎朝掃除をするようになって1ヶ月半ほど経過しています。
それだけ毎日掃除をすれば、さぞかし部屋はきれいになっただろう・・・・・・と思いきや、全然そんなことはないのでした。
確かにいままでよりは、かなりマシにはなっています。
しかし時々、発見するのです。
「そういえば、ここは掃除していないな・・・」
たとえば冷蔵庫の下とか、押し入れの中とか、ドアの壁とか。
見落としているところが、思った以上にあるのです。
そしてなにより、毎日掃除をすると、明確に知れることがあります。
ホコリは毎日、大量に出ている。
毎日やっても追いつかないのに、どこかで「まとめてやろう」だなんて・・・。
そこで一回「ちゃんと」考えてみました。
家のなかで掃除をすべき場所を箇条書きで考えるのではなく、3D立体構造としてイメージして、考えてみるのです。
そうすると、愕然とする。
掃除をすべきところを脳内スキャンしていくと、家具の裏なんかのニッチな場所ではなく、わりと重要な箇所でカビなどが生えやすく、できれば毎日掃除することが望ましい箇所だけでも、非常に多いことが判明してしまったのでした。
床や階段は当然として、トイレ、風呂場、キッチンなど水回りはもちろん、玄関の靴置き場やドアノブ、手すり、などなど、このへんは当たり前ですけど、そこを細分化していくと、非常に厄介なのです。
たとえばトイレだけでも、便器は当然として、壁や電気のカサ、壁、ペーパーホルダーやカーペットなど、注意すべきところはいくつもあります。
便器の内側の水が出るところや、水のタンクの中なども、無視してよい場所ではありません。
こんな感じで精細にスキャンしていくと、ぼくは忽然と気がついてしまったのです。
掃除は毎日するものである。
目につく、掃除しやすいところだけやって、あとは大掃除のときに・・・なんて考えていたら、もう全然無理です。
その大掃除の期間が、1週間も2週間も必要になってしまう。
そんなヒマなひとは、あまりいないと思うのです。
それにもしそれができたとしても、一気にやったら、病気します。
だから計画的じゃなくてもいいから、1日に1箇所は普段掃除していないところをやっていかないと、あとが地獄になる。
これは毎日掃除してはじめて、わかるのですよね。
たしかにぼくは、男のわりには掃除をするほうだし、きれい好きなほうでもあります。
しかしそれはあくまで「見えているところだけ」に限定されていたのでした。
そして、このように丁寧に掃除をしていると、両親などもたまにいうのです。
「やっぱりおまえは、神経質だなあ。」
ちがう。
断固として言えるけど、ちがいます。
まあ両親には「そうだなあ、誰に似たんかな、あはは」などと言ってはいますが、そうではないのです。
何もしていなくても1日にどれだけの量のホコリが出ているか知らないから、神経質だなあといって、言外に「そこまでしなくていいのに」という皮肉を言うことができるのです。
しかしぼくは、家族にこれを強要しようとは思っていません。
ものごとはなんでも、気がついたひとがやればいいのです。
いい運動になりますしね。
神経質だといって悩んでいたのが、バカみたいなのです。
ぼくは全然神経質じゃなかったし、むしろ非常に無神経で無頓着でした。
いっしょうけんめい働いて住宅ローンを払っているのに、どうしてゴミやホコリやカビなどとルームシェアしないといけないのでしょうか。
家族が家のホコリやカビが原因で肺炎になったりしたら、かわいそうです。
ぼく自身にとっても、家にいる時間が長いぶん清潔は大事なことです。
自分が思っているほど、神経質ではないのですよね。
むしろ、全然足らない、全然ちゃんとしていない。
それを知ると、すくなくとも「私は神経質である」という悩みは、いっぱつで消えてしまうのです。
そもそも、きちんとしているひとのことを「神経質だ」などといって揶揄する風潮に、けっこうな問題があるとも思いました。
ナメすぎているのですよね。
いい加減で、テキトーで、鈍感であることを、まるで良いことのように言うこともあります。
細かいことができなくて、おおざっぱであることを、大人物のように言う風潮もあります。
「おれ、細かいこと苦手なんだよな」
こういうことを言うひとは、言外に「おれは細かいことにはこだわらない大人物なのだ」ということをイメージづけようとしているし、自身の怠惰さを擁護しようともしています。
「おまえ、神経質だなあ」
これは言外に、相手の少人物加減を揶揄する意図も含まれています。
はっきり言って、これはとんでもないですね。
この世の中に、本物の神経質なんか、いません。
神経質っぽく見えるというだけで、どのようなひともみんな、ものすごくいい加減な側面を持っています。
「神経質を治そう」だなんて、とんでもない考えだったんですよね。
とことん神経質になろう!
そう思っても、すぐに「もう、こんなもんでいいかな・・・」って、なってしまいます。
体力のほうが切れてしまって、ギブアップしてしまうこともある。
じっさいに結局、ぜんぜんできてないんですよね。
もうすでに、そのような「甘い」ところが十分にあったのです。
だからなにも、ことさらに、じぶんを甘やかす必要もなかったし、神経質をやめようと思うこともなかったです。
むしろ、もっともっと神経質になったほうがいい。
バカなひとが「賢すぎるのをやめよう」っていうようなことを、ぼくはしようとしていたんです。
ぼくなんて、全然甘い甘い。
ぼくていどの神経質さぐらいで「神経質をやめたい」だなんて、傲慢にもほどがありました。
えらそうに!
毎日掃除をしていたら、そんなじぶんに、気が付きます。
ある意味、ほっとしました。
ぼくは病的な神経質ではないし、なろうと思っても、なれないです。
ぼくの根っこは、想像以上に、いい加減でした。
自分のままで、いいのだ。