ドーパミン世界からセロトニン世界へ

仏教や禅というのは、ドーパミン型からセロトニン型への移行手段のひとつなのではないか、と思ったりします。

いまぼくたちが生きてるこの社会は、そういえばちょっと「ドーパミン型」に偏りすぎてるんじゃないかな、と思うこともあります。

そしてぼく自身もまた、ドーパミン依存になってしまっているのではないかなあ。

 

有名な話ですけど、パニック障害やウツなどはセロトニンという脳内物質が減少しすぎると起きる病気なんだそうです。

不安、恐怖、焦燥感、自己否定感などは、セロトニンの不足によって起きるらしい。

だからパニック障害やウツを治す場合には、SSRIという「セロトニン再取り込み阻害薬」を利用することが多いようです。

非常に乱暴な言い方をすると、SSRIはセロトニンが「出ていってしまう」のを強制的に防止する、ということなのでしょう。

 

そしてなんと、このセロトニンには「ドーパミンを抑制する」はたらきもある、といわれているようなのです。

ドーパミンは快楽物質ともいわれていて、快楽を与えてくれる物質なんだそうです。

ドーパミンは「報酬系」で、いわゆる「アメとムチ」によってもよく出るし、「この先に良いことがあるのではないか」という、いわゆる期待や希望によっても出る。

とても良いのですが、欠点もあるようです。

あまりドーパミンに依存しすぎると、依存症みたいになってしまうのだそうです。

いわゆる報酬系のサイクルにどっぷりはまってしまって、「報酬がないと快感を得られない」という状態に陥りやすくなる。

ギャンブル依存やセックス依存なども、ドーパミンの過剰によって引き起こされるという説もあります。

そして怖いことで、ドーパミンはセロトニンを抑制するはらきもある、という話もあるのです。

だからあまり達成感や利益、ご褒美、快楽などに依存していると、セロトニンがスッカスカになる可能性もある、ということです。

 

セロトニンはドーパミンを抑制し、ドーパミンはセロトニンを抑制する。

そんな「相克」の関係があるんですなあ。

 

ちなみにセロトニンは、薬物を使用しない限りは過剰になることはまずないのだそうです。

SSRIなどの過剰投与によってセロトニンが増えすぎ、頭痛や動悸などの症状が出る場合はあるようです。

しかしドーパミンに限っては、強い報酬系サイクルにいると、過剰になりやすいのだそうです。

なんじゃそら!

セロトニン、弱っ!

なんていうか、ドーパミンのほうが「強い」んでしょうかねえ。

そのへんは残念ながら、うまいことできてないんだなあ。

さておき、まあ結局のところ、だからセロトニンもドーパミンも、やはり「バランス」が大事なんでしょうけれども。

 

ドーパミンの作用をひとことで形容すると「うれしい・たのしい・きもちいい」なのだと思います。

そういう意味では、スポーツも、勉強も、ビジネスも、エンタメも、とにかく現代のいろんなことは、だいたい「ドーパミンありき」なところがありますね。

勝ちたいとか、制覇したいとか、達成したいとか、儲けたいとか、頂点に立ちたいとか、楽しみたいとか、わくわくしたいとか、とにかく「報酬」をめざしている。

目標に向かって突き進むことを「向上心」なんつってカッコのエエことをヌカっしょるけれども、その実はただの「報酬系ドーパミン・ラリリちゃん」にすぎない、ということも言えるのかもしれないのです。

そんな日々をずっと送っていると。多すぎるドーパミンでセロトニンが抑制されて枯渇してしまい、あるひとつぜん理由なく「ガクっ!」と電池が切れてしまうかもしれない。

あ、それ、俺か。

 

そういえば心理学の実験でもありましたが、「自己の利益」を目的にして起こした行動は、幸福感を低下させる傾向が強いんだそうです。

いっぽう、単純に親切とか善意とかで行う他者利益のための行動のほうが幸福感が高くなる傾向があるようです。

これはつまり、報酬を求めるというドーパミン作用が、セロトニンを低減させてしまったのかもしれないですね。

 

こうなってくると、いわゆる仏教の諸説が、とても合理的にできた「セロトニン活性術式」に見えてくるのです。

仏教ではとにかく「我をすてろ」というのですね。目的さえ捨てろという。

歌舞楽曲は遠ざけ、うまいものを食うのもダメ、セックスもダメ、お金儲けもダメ、とにかく慈悲のココロをもって、人々のためにつくせ、という。

この部分だけを聞くと、「んなことしたら、ウツになってまうわ! バッキャロー!」とか、思ってしまいます。

しかし上記の「ドーパミン・セロトニン」の特性から見れば、これはなにも禁欲的になれと言っているわけではなくて、「セロトニンをいっぱい出すための」方法論の提案、と見ることもできます。

 

ちなみに坐禅も、坐禅で行う丹田呼吸も、セロトニンを増加させ、セロトニン神経を活性化させるんだそうです。

また禅で非常に重視する掃除もまた、セロトニンをよく出すという説もあります。

読経のように、しっかり声を出して同じ文言を繰り返し唱えることも、セロトニンを出す。

経行という「歩くことに集中する」というのも、セロトニンを出す。

早寝早起きの規則ただしい生活も、セロトニンを出す。

食事に集中し、しっかり噛むことも、セロトニンを出す。

菩薩行や典座などの、無報酬で他者を助ける行為もまた、セロトニンやオキシトシンを出す。

禁欲的に見える制限で「うれしい、たのしい、きもちいい」を司るドーパミンをへらすということは、セロトニン放出のブレーキを弱める、ともいえます。

 

べつに、わけもなく禁欲主義になれとか、厭世的になれと言っていたのではないのかもしれないです。

そうじゃなくて「最も効率的にセロトニンを放出し、セロトニン神経を活性化させる」という、たいへん合理的なメソッドを提案してくれていたのかもしれません。

 

そう考えると、なにも頭をまるめて出家するまでもなく、

 

・規則正しい生活をする。

・太陽光を浴びる。

・しっかり集中して歩く。

・しかっかり集中して食う。

・坐禅をする。

・掃除をする。

・「ごほうび」を求めない。

・目的や、目標を、さだめない。

・達成感に依存しすぎない。

・「うれしい、たのしい、きもちいい」に依存しすぎない。

 

このへんのことを日々無理のない範囲でやっていけば、「セロトニンどばどば」も、夢ではないかもしれないですね。

 

しかし!

「セロトニンを出すのだ!」という目的は結局報酬系なわけで、そのような意図を持って行うのは、かえってドーパミンを増やし、セロトニンを抑制する可能性もあります。

「只管打坐」というのは、悟ろうとか、健康になろうとか、安定したココロを得ようとか、そんなふうに効果を求めたり、目標設定をするのではなく、淡々と、粛々と、ただただ坐禅をしろ、という意味なんだそうです。

そんな姿勢が、良いのかもしれません。

そう考えるとまた、この「只管打坐」もまた、ドーパミンを抑制し、セロトニン生成のブレーキを解除するという目的に、とても合致しているな、と思います。

 

ちなみに、一説によると「エロ動画」とかはドーパミンがドッバドバに出るそうです。

あと、セックスや自慰行為も。

よく「オナ禁」をすることでとても元気になった、という男性の話も聞きますが、これも男性ホルモン云々だけではなく「ドーパミン抑制」の結果なのかもしれませんね。

ドーパミンの量をへらすことで、ブレーキが解除されて、セロトニンがよく出るようになったのかも。

 

うれしい、たのしい、きもちいい。

「たまに」ならいいけれど、それを毎日となると、結局幸福感はダダ下がりになるのかもしれないですね。

 

ドーパミン世界から、セロトニン世界への、お引越し。

快楽ではなく、幸福が欲しいのなら、快感とはちょっと距離を置かなくちゃいけないのかもしれませんね。ちょっと残念ですけど。

 

 

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