夢は捨てろ、志を持て。

「夢」と「志」っていうのは、似ているようで、全然違うそうです。

夢に向かって……とか、夢は叶う……とか、私には夢がある……とか、寝言みたいなことをよく言いますけど、この場合の夢というのは、戦後からよく使われるようになったんだそうです。

戦前までは「志」のほうをよく使っていたそうです。

そもそも夢というのは眠るときに見るものを言っていたし、いわば実態のない妄想に近いことを指していましたから、将来の展望や希望のことを夢というのは、厳密には使い方が違うような気がします。

 

夢 …… 個人的な希望、自己実現欲求

志 …… 多くの人々の希望を叶えるための献身的志向性

 

というふうに、分類できるんだと思います。

 

最近、ぼくにはストレスはないはずなのに、なぜストレス性の体調不良が多発しているのかということを考えてきました。

そこでまず、意識が所属している世界が狭いほどストレスが強くなる、ということに気がつきました。

意識の所属先が広くなればなるほど、ストレスというのは減っていくのです。

 

この観点からいうと、いわゆる「夢」というのは、人類の最小単位である「自分自身」に意識が帰属している、ということになると思います。

わたしが、ああなりたい。

わたしが、こうしたい。

こういった欲望は一見実現すれば幸福そうな感じがしますが、実際には非常にストレスが高くなる志向性なのだと思います。

芸能人にパニック障害が多いのも、案外自己実現という狭い自己の世界に意識が埋没しているがゆえに、ストレスが膨大になっているのかもしれません。

 

いっぽう「志」というのは、意識の所属対象が原則「他者」なのですね。

自分自身の利益ではなく、自分以外の誰かとか、特定の集団全体とか、社会全体とか、そういった広範な人々の利益を目指している。

つまり意識の帰属先が夢よりも大きい、ということになります。

 

ストレスを減少させるためには、夢などという個人的な展望や欲求に埋没するよりも、志という複数の他者の利益を目指す世界に軸足を置くほうが、効果的なのかもしれません。

実際に自分の利益を考える行動よりも、他者の利益を考える行動のほうが、幸福度が上昇するという心理実験結果もあるようです。

 

そういえば、ぼくには夢も志もなかったように思います。

せいぜい、自身のパニック障害や自律神経失調症を治そうという希望があったぐらいです。

しかしこれも一筋縄ではいかず、何度も頓挫しますから、希望さえ失いそうになります。

 

この個人的な希望は、もうすこし汎化させていってもいいのかもしれませんね。

「わたしが治るために」ではなく、たとえば「この世のパニック障害等で悩むひと達のために」というふうに。

これは「志」といっても、良いのかもしれません。

 

自分だけを救おうと思ったら、たった一人で戦わねばなりません。

しかし全員を救おうと思えば、一緒に戦ってくれるひとも出てくる。

夢が案外苦渋に満ちた道であるのは、こういうところなのかもしれませんね。

 

「こどもの夢を壊すな」

もしかしたら、こんなことを言い出した大人たちに、根本的な問題があったのかもしれません。

小学校の文集にも「将来の夢」というような特集があったりします。

大人がガキの個人的野望の構築の手助けをするのは、かえってその子を苦しめる結果になるのかもしれないです。

妄想に過ぎないようなことや、エゴイズムに依拠した欲求を推奨し、「ひとさま、よのなかのために」という、案外心の安寧を求めやすい「ひろいみち」を、閉ざしてしまった。

むしろ子どもの夢はどんどん大人が破壊してあげて、かわりに「志」を持つ手助けをしてあげる。

そのほうが意識の所属先が広くなり、ストレスに強い人になる可能性が高くなるかもしれません。

まあ、それができないのは、大人のほうがまだ「夢」しか持てていないからかもしれませんが。

 

夢なんかいらない。

どうせ持つなら「志」ですね。

 

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