「達成感」を味わうためには、苦労が必要だ、といわれます。
苦労して、苦労して、やっと手に入れた。達成した。
たしかに、これはかなりの快感です。
でもどうやら、この方式を日常的に使用していると神経を病んでしまって、パニックとかウツになってしまうかもしれないようなのですね。
達成感というのは、ドーパミンを多く分泌させるからです。
ひっきりなしに達成感を味わっていると、アルコール依存症と同じく、ドーパミン依存症になってしまうんだそうです。
暑いのを我慢して、水を飲むのも我慢して、そこで飲むビールはうまい!
おなかをすかせて、ギリギリまで踏ん張って、そこで食べると、なんでもうまい!
がんばって、がんばって山道を歩いて、頂上についたら、すごく気分がいい!
耐えて、耐えて、耐え抜いて、事業が成功したときは、喜びはひとしおである!
考えてみたら、ぼくはそんなことを、よくやっていたと思います。
つらくても、いっしょうけんめい耐えて仕事をして、それがおわったときの快感。
目標を設定し、それをクリアしたときの快感。
この「快感」を頼りにして、がんばっているところがあります。
「がんばりやさん」というのは、ただ努力しているのではありません。
じつのところは「がんばることで、のちに得られる快感」の、ジャンキーにすぎないのです。
ばんばって、快感を得たことがあるから、がんばるのです。
成果がないのにただ頑張るというひとは、とても少ないです。
「がんばって、努力して、耐えて得た快感」は、たとえばただセックスをしまくるとか、のんだくれるとか、そういった怠惰な生活と比べるとかなり高尚な感じがするので、「いいこと」のような気がします。
しかしこの「いい」は、あくまで倫理的観点から見た場合だけなのですね。
肉体の反応や、脳内の状態からすれば、やっていることは快楽におぼれているということで、まったく同じことをしている。
ジョギングをやりだしたら、もうやめられなくなってしまった。
これも一種のドーパミン依存症といえるかもしれないです。
そういうひとは体調が悪くてもやってしまうから、カラダを壊す確率がとても高いのだそうです。
ジョギングじたいは健康的ですばらしい運動だから、その中毒になることは、あまり悪く言われることはないです。
これも結局、倫理的観点から評価しているに過ぎません。
あたまのなかは、ラリパッパなのに。
ドーパミンが過剰になると、バランスが崩れてセロトニンが出なくなる場合もあるようなのです。
努力 → 報酬というサイクルにはまり込んでしまうと、幸福感が激減する可能性があるのですね。
達成したときの快感は、あれは「幸福感」ではないのですね。
ただの「快感」にすぎない。
幸福は主観的であり、快楽は客観的であると澁澤龍彦氏は言っていましたが、最近坐禅をするようになって、これは明らかに誤った解釈だなと思うようになりました。
幸福というのは決してあやふやな概念ではなく、ちゃんと「ある」もののように感じます。
報酬系のなかにずっと居座り続けていると、幸福というものがどういうものだったのか、すっかり忘れてしまうのだと思います。
幸福というのは、かなり地味で、刺激なく、変化なく、めりはりのない、ただの平常、ということなのだと思います。
安心、と言い換えることもできるかもしれないです。
でもこの安心は、不安な状態から開放されて相対的に感じる安心ではなく、絶対的な安心。
平常心からもたらされる、平和でなにごともない、ふつうの状態を指すように思います。
その観点で自分のこころの状態を観察してみると、いかに報酬系に毒されていたかがわかります。
うれしい、たのしい、わくわく、きもちいい。
そういう感覚がなければ、それは幸福ではないように思ってしまうのです。
しかしその枠線からすこしはみ出して、なにごともない、面白くも楽しくもない、達成感もない、他愛のない、「ただの、いま」というのが、じつは最もすばらしい幸福である、と感じることがあります。
なにか刺激的なことがないと人生がつまらない、そう思ってしまっていたのは、なにも貪欲だったり活発だったりということではなく、ただの「ラリパッパ」だったんですね。
ふつうに考えて、「たのしい」があるから「つまらない」があるんですよね。
そして、たのしいことは絶対に、飽きる。色あせていく。
たのしいことを手に入れると、かならず時差で「つまらない」がついてくるのです。
たのしいことに依存しつづけていると、日々を重ねるごとに、つまらないことが雪だるま式に増えていってしまう。
その雪だるまに押しつぶされて、もう人生がつまらない、と言い出す。
この報酬系から脱却するのは、かなり難しいと思います。
お酒やタバコ、ギャンブルでさえ、いちど依存してしまったら、脱却がむずかしいのです。
どのような依存も、そこから脱却するのには、たったひとつの方法しかありません。
遠ざける。
いくら四の五のりくつをこねまわしても、結局はこれしかないんですよね。
依存してしまったら、もう精神性なんて、人間性なんて、関係ない。
対象から距離を置き、接さないようにするしか、本質的な方法はありません。
つらいことを「耐える」という考え方、そしてそれから「開放される」という考え方を持っている限り、永久にドーパミン依存から開放されることはないのかもしれないです。
動機づけそのものを変更していかないといけないのかもしれません。
「つらいことのあとにある快楽」を動機にするのではなく、「ただ、やる」という習慣。
希望的観測や予測される結果をめざすのではなく、「ただ、やる」という習慣。
なかなかむずかしいですけど、やっていることは同じでも、動機が違えば変わってくると思うのです。
そういう意味で、坐禅は良いのだろうと思います。
坐禅は、効果や悟りを求めては、いけないのだそうです。
坐禅を継続することで、なにか効果があるのではないかと期待してはいけない。
坐禅は、坐禅すること、そのことじたいが、目的でないといけない、というのです。
最初は、なにを言っているのかサッパリわかりませんでした。
人間というのは報酬系の生き物なのだから、効果や期待を持たずになにかをする、なんていうことはできるはずがない。
ずっとそう信じていました。
しかし実際には「人間は報酬系の生き物である」という説じたいが、迷信だったのです。
たしかにそういう側面はあります。そして、それが前面に出ています。
だけど、人間が報酬系のメカニズム「しか」持っていない、というわけではなかったのです。
こころの裏側に、そっとちいさく、隠れているシステムもありました。
「目的も報酬もなく、行動することができる」
決して大きな顔はしていませんが、たしかにこのシステムが、ありました。
坐禅というのは、そっちのほうを使っていく練習なんじゃないかな、と思いました。
無報酬系のシステムに乗って、いますべきことを、いまやっていることを、淡々粛々とやる。
効果も報酬も期待しない、希望も夢も持たない、ただ無感情に、すべきことをする。
これがバッチリできるようになったら、もう「報酬系」のサイクルのなかで、あくせくしなくてもよくなるのだと思います。
アパシーシンドロームになるとか、冷酷無比になるとか、そんな病的な、強烈なことではないです。
そんな「逆」に向かわなくても、こころの裏側に、あった。
無報酬系のシステムが。
報酬系と無報酬系のシステムは、どうやら「共存可能」のようなのです。
報酬系のサイクルを「破棄する」「破壊する」のではなく、今までほとんど使っていなかった「無報酬系システム」を、ときどき使うようにする、というだけなんだと思います。
続けていくと、いつしか無報酬系のほうがメイン・システムになっていくのかもしれませんが。