もっと甘えたって、いいのよね

昨日はエアコンの清掃がありました。

おかげで、エアコンからはヘンなニオイが完全に消えて、なんならプラスチックの部品のニオイがしているぐらいです。

つまり、新品のようなニオイになった。

業者さんは、とても良いひとたちでした。

愛想よく、まじめで、礼儀正しく、気配りができて、仕事も当然きちんとしてくれました。

知人からの紹介だったので、さらに安心感もありました。

 

なのに。

ぼくは昨日、業者さんが家に来るとなると、異様にソワソワしはじめたのです。

あの例の、パニック発作に限りなく近い感じです。

じっさいに来られてからも、ぼくはじぶんがいつ発作に陥るか気が気ではありませんでした。

幸い、いわゆる発作に落ち込むことはありませんでしたが、とても疲れました。

 

しかし、これで証明されたのです。

来客があると予期不安でパニック発作が出そうになることがありますが、これはその「人」にはまったく関係がなかった、ということです。

その人が好きとかキライとか、そういうのは一切関係がない。

 

パニック発作が出ているとき、人によって志向性が2種類に分かれるのだそうです。

「だれかが、そばにいてほしい」と思うひと。

「だれにも、そばにいてほしくない」と思うひと。

外出恐怖を患っていても、たとえば家族や友人と一緒ならばなんとか外出できるという人がいますが、これは「だれかが、そばにいてほしい」と思うタイプのひとですね。

 

ぼくは、後者です。

発作中は、家族だろうが彼女だろうが飼い犬だろうが、そばに居てほしくないです。

完全に、一人になりたいです。

とてもかわいい、愛するわが娘であっても、一緒にいたくありません。

もちろんベースには「相手に迷惑をかけたくない」というのは、あります。

でもそれは、要件のひとつにすぎません。

むしろメインは、「人を拒否している」。

 

案外、ポイントはここかな、と思ったんです。

十把一絡げに不安発作だ、予期不安だ、パニック発作だ、と言っていたけれども、じつはぼくのやつは「拒否発作」だったのではないか。

とにかくありとあらゆるものに対して「拒否」を発動してしまうのです。

あれもちがう。

これもちがう。

邪魔だ。

邪魔するな。

消え失せろ。

おれの目の前に、だれもあらわれるな。

 

なんだろう。

キライな人に対してなら、それほどふしぎではありません。

でも、ぼくはそんなに人嫌いでもないです。

どっちかというと、好きな方かもしれません。

すくなくとも、人のことをウザいと思うことは、発作中以外は一切思うことがありません。

お酒に酔っ払ったりなんかすると、ぼくはもうまったく知らない外人とさえ仲良くなって、その人の家に遊びに行ってしまうことさえあります。

 

しかし発作中は、愛犬でさえ、疎ましくおもう。

まあ、あれだけの恐怖と混乱のさなかにあれば、そうなるのも不思議ではないのかもしれませんが、不思議なのはその「状況」のことではないのです。

どうしてこんなに、二重人格的に志向性が変化してしまうのか、ということです。

本気で、あたまおかしいのだろうか。

 

ひとの心は三重構造をしている、という話を聞いたことがあります。

表面的な部分と、その少し下と、根源的な部分。

お酒をたくさん飲むと飛び出してくるのが、根っこにある、根源的な部分といわれています。

酔っ払うと本性が出てくるというのは、こころの上等な部分が全部アルコールで麻痺してしまって、最奥のところがむっくり顔を出してくる、ということなのかもしれません。

 

恐怖というのは、もしかすると「中間層」を引っ張り出すのかもしれません。

表面のすこし下にある、「根源」のすこし前の「本音」ともえる部分。

経験によって蓄積されていった、影のような世界。

ぼくは、表面的には愛想がよく、人好きです。

しかしその少し下のレイヤー、つまり本音としては、人がすごくキライなのかもしれません。

発作時に「拒否」がどばどば出てくるのは、そういうことなのかも。

 

思い出せないだけで、人のことをキライになるような経験をしたのかな、と思うのです。

本質的には「あまえた」なんですよね、たぶん。

ほんとうは、人に頼りたいし、甘えたい、べたべたしたい。

「人を信用すべきだ」とかいう倫理観を持っているといういよりも、「信用したい」だけなんですよね。

だけどこころの表層部分では、それを「だめだ」としているのです。

男たるもの、大人たるもの、きちっと自立しておかねばならーんっ!

責任遂行こそが、人類の価値であーるっ!

他人に迷惑をかける者など、人間のクズであーるっ!

みたいな。

強い甘えの衝動があるくせに、それを抑圧する強い倫理観もあるために、ワケわかんなくなってる。

ひとを「信じる」ちからが強いと、裏切られたときのショックも格別なんですよね。

大きなことはなくても、日々のちょっとした「裏切られ」が、積み重なっていくかもしれません。

 

もっと正直でもいいのかな、と思ったんですよね。

ひとに裏切られないように注意したり、信用しないように性格を変えるんじゃなくて、裏切られたら裏切られた人数ぶん、頼れるひとを増やしていくほうが確実です。

自立・直立はたしかに格好はいいけれど、コマと一緒で、ずっと休みなく回ってなければならないし、いつかは必ず倒れてしまうんですよね。

でもお互いにもたれ合っていたら、いつまでも倒れません。がんばらなくてもいい。

そもそもの性分にないことを、むりやり持ち込んできたせいで、こころのひとつ下のレイヤーに「ひとが、きらい」っていう影が、よけいに生まれてしまったような気がします。

つよい光=倫理観は、濃い影を生むのです。

 

「ほんとうの自分」なんて、そんなに難しく考える必要はなかったんですよね。

ぐでんぐでんに酔っ払ったら、だれでも出てくる。

それが、ほんとうの自分。

そのときの自分に見合うようなことをしておけば、無理がなかったんだと思います。

 

もっと、ひとに、あまえていいね。

 

 

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