そういえば、ぼくは「精神的支柱」というのを失っているのかも。
ずっと自律神経の調子がおかしいとか、パニックがどうのこうの言ってる。
その原因を、神経や栄養素、血流やホルモンのバランス、骨格バランス、アレルギー反応など、肉体的・物質的側面から解消しようとしてきました。
あるいは、ストレスや考え方、性格など、心理的な側面からの接近を試みたこともあります。
いずれも結局、これといった効果はありませんでした。
あれやこれやと様々な方法論を総当り的に試してはみたものの、「これだ!」というものはいまだ発見できていません。
もちろん「まだ」見つかってないだけなのかもしれないし、ぼくの努力が足らないというのもあるのかもしれないです。
だから方法論には意味がないと断言することはできません。
ただし、ひとつ確実にいえることがあります。
「いろいろ、やってみる」
この行動のウラには、どんな心理が存在しているか。
「疑念」
なのですね。
四六時中、ここが原因ではないか、あれが原因ではないかと疑っている。
虱潰しに可能性のあるところの改善を行っていますが、その行動はほぼ100%「疑念」によって行われていたのです。
疑う。
さてこれは、科学的視点としては、正しい姿勢ではあります。
しかしぼくが求めているのは、科学的真理ではありません。
不具合の改善、もしくはそれからの開放を求めています。
非常に雑な言い方をすれば「幸福」を求めている。
幸福と、疑念。
これはどうも、相性が悪いような気がします。
幸福との相性が良いのは、疑念よりも、信念なのではないか。
パニック発作を起こして以来、ぼくは精神的支柱を失ったのです。
それまでぼくが持っていた精神的支柱は「体力」でした。
幸い五体満足で心身ともに健康だったのと、運動部だったので体力もあり、多少の無理は効きます。
だから「がんばればなとかなる」という自信を持っていました。
能力には自信はないが、体力には自信があった。
精神的支柱が、体力である。
「体力」というものを精神的支柱にしていたところに、最初の原因があったのかもしれません。
というのも、体力というのは、絶対に衰えていくものです。
いくら鍛えていようが、年の割にはすごいねというのはあったとしても、必ず衰えていく。
また、いくら体力があるといっても、それは「多くの一般人に比べて、体力がある」ということにすぎません。
上には上がいて、全人類の頂点に君臨するほどではありません。
あくまで「相対的に」体力がある、ということにすぎない。
だからそんな頼りないものを精神的支柱にしていたのでは、いずれ支柱を失うのは当然といえます。
柱というのは、もっと確実なものでなければなりません。
五重塔の柱は微妙に動く、というけれど、だからといって折れたり消えたりしてしまう、ということではありません。
多少動くとしても、原則「絶対的」なものでなければ、それは柱とは言えない。
柱が消えると、その建物は崩壊します。
相対的なものを精神的支柱にしていると、必ずいつか精神が崩壊することになる。
しかし「この世のすべて」は絶対的なものではなく、相対的なのですよね。
精神的支柱が、家族である。
家族もまた絶対的ではありません。
人は成長し、死亡するので、「人」を精神的支柱にしているといずれ支柱を失うことになる。
会社や社会、国家という組織であっても、同じです。
組織は必ずいつか、変化し、消える運命にあります。
だからそういうのを精神的支柱にしていると、組織がなくなったり、あるいはそこから脱退したときに、精神が崩壊してしまうかもしれません。
対象がモノであれば、いわずもがなです。
もしかしたら、そういう特性があるので「宗教」というものが生まれたのかもしれません。
この世のはじまる前から、終わったあとにもずっと存在しつづける、絶対的な、超時空の存在。
キリスト教やイスラム教では、それを「神」というのだと思います。
仏教では、大乗仏教系の「ほとけ」は、無限の過去から無限の未来まで永劫永遠に存在し続ける絶対的存在です。
そういったものを定義して、そこに精神的支柱を求める。
たしかに、そのような「絶対的存在」に対する精神的支柱があれば、どのようなことがあっても「柱が折れる」ことはありません。
もしかすると人間には「絶対」という定義が必要なのかもしれません。
その「絶対」を、一般的には人や組織など相対的なことに「便宜的に」定義づけていることが多いのだと思います。
絶対という概念は、理解しにくいからです。
宗教を信奉しているひとをバカにする風潮も少なからずありますが、しかしそのバカにしているご本人は「相対的な何か」に精神的支柱を代理させているだけなのかもしれません。
仕事や、家族や、自身や、趣味や、会社や、社会など、そういった「相対的で、有限」なものに。
絶対的な存在というのはあくまで「定義」なので、それが実存しているとは言えません。
しかしいっぽう、それを「存在していない」と証明することも、できません。
死なず、生まれず、見えず、聞こえぬ、超時空にして永久無限の絶対者。
そういった存在に精神的支柱を求めることができる人は、やはり「果報者」なのだと思います。
またそのような概念を感覚的に把握できるのは、むしろ脳の機能が高等なのかもしれません。
いくら外野が「ばかだ、非科学的だ、気色悪い」といったところで、こころのなかに宇宙の絶対中心軸があるひとには、結局なにもかないません。
仕事を精神のよりどころにしている人よりも、神を精神のよりどころにしている人のほうが、こと「幸福」という観点からすれば圧倒的な上位者といえるでしょう。
信仰心を持つひとをバカにするのは、そこに他者依存傾向があるからで、絶対的概念の把握という脳の機能については言及していないか、それを妄想と決めつけます。
しかし実際には、人はみななにかに依存して生きており、妄想を軸に生活しています。
その対象が異なるだけで、やっていることはまったく構造的に同じ。
果報者になりたい。
ぼくは科学的思考という「疑念」に汚染されて、理屈っぽいことばっかり考えてきたせいで、すなおな信仰心を失ってしまいました。
知識はひとを、幸福から遠ざけることもありますね。
知識が豊富でそこそこ賢くて、疑いばかり持って生きて行く人よりも、愚直になにかを徹底的に信じられる人のほうが、圧倒的に強靭です。