あるかもしれん。
我思う、ゆえにそうなる。
昔から「イワシの頭も信心から」とも言いますし。
「実際に運動不足かどうかよりも、運動不足だと思っていることが寿命や健康に影響する」
という事実もあるようです。
https://gigazine.net/news/20180530-mind-over-matter/
さまざまな神経症(ウツや不安神経症、パニック障害)は、そこそこ強度の高い運動を継続するとかなり好転するということはよく知られています。
そこで「では、どれぐらい運動すればいいのか?」という疑問が出てきます。
しかしこれは結局、人によってちがうようです。
もちろん体力は人によって違いますから、さもありなんと思います。
しかし、もしこの現象が「運動そのものよりも、運動をしたという思い」によって起こっている、としたら、どうだろう?
まったく運動をしていないのに「わたしはよく運動をしている」なんて思い込むことは困難です。
しかし毎日なにかの運動を継続していけば「わたしは運動不足ではない」と思い込むことは容易です。
実際に運動不足かどうかよりも、運動不足ではないと思っていることが重要なら、まさに「人それぞれ」で効果のある運動量が変わってくることは納得がいきます。
ちなみにぼくは、ウォーキングやヨガなどの軽〜中程度の運動では、あまり効果がありません。
ジョギングや筋トレなど、そこそこハードなものでないと、効果が出にくいです。
これについても、ぼくの「思い」が関係しているかもしれません。
中学生のころから柔道をがっつりやっていたので、ぼくの中で「運動」というのは、阿鼻叫喚地獄のような苦痛を味わうものである、というのがあります。
絶叫し、嗚咽し、ゲロを吐く寸前までやらないと、それは運動ではない、という概念があるのです。
もしかしたらそういう価値観が「ゆるい運動」の効果を阻害しているのかもしれません。
ウォーキングやラジオ体操、ヨガ程度なら、「わたしは運動をしている」とはいっさいまったく思えないのです。
運動そのものに効果があるというよりも、「運動をしているという意識」こそが重要であるとするならば、軽い運動で効果がないということにも納得がいきます。
我思う、ゆえにそうなる。
もしこれが正しいとすると、もうネットや本で情報をかき集めることは、まったく意味をなさなくなる可能性が出てきてしまいます。
ネットや本でいろんな健康情報を探していくと、どうしても「反論」に接することが増えるんですよね。
たとえばジョギングがいい、という話があると、必ずと言っていいほど「ジョギングはからだに悪い」という話も出てくるのです。
ジョギングに限らず、どのような健康法でも、かならず「反論」が出てきます。
「一日一万歩がいい」という話には、「一万歩はからだにわるい!」という説がついてきます。
坐禅でさえ、「たいへん良い」という話と「やらないほうがいい」という反論が混在しています。
この反論が、じつはたいへんに、くせものなのですよね。
そういうのを読むとつい、「そうか・・・あまり効果がない場合も、あるのだな。逆にわるくなる場合も、あるのだなあ」という思いが少し出てきます。
そういう思いをいつまでも引きずっていてもしかたがないので、「とりあえず、やってみればわかるさ!」ということで、まずはやってみるのです。
しかし「反論」がこころの隅にある状態で実行することと、それがない状態で実行することでは、効果に圧倒的な差が出てくるかもしれないのです。
反論をセットで学ぶというのは、「学習」や「研究」という見地からすれば、ただしいことです。
しかしこと「心身の健全」ということを意図したときには、無反論の世界で実行しないといけないのかもしれません。
ネットや本で物事を探すのは、そういう意味で、なにもかもが「意味のないこと」に堕してしまう可能性をはらんでいます。
世の中には、残念ながら「奇をてらった意見で注目を集めたい」という、ひじょうに寂しい欲望を持ったひとが少なからずいるのです。
そういうひとは物事の欠点を執拗に調査し、一般的に良いといわれていることを悪いと証明し、意外性による精神への刺激を使用して我が身に視線を集めようとします。
これにまんまと引っかかると、「疑念」を抱えたまた、「よいと言われることを」をすることになります。
だから、あんまり調べないほうが良い。
結局、なにをやったって、文句言うやつはいる。
ネガティブな意見を言うやつは、どの世界にも必ずいるのですよね。
そんなもんにイチイチ付き合っていたら、あらゆる努力の効果は、全部帳消しになってしまう。
人の意見なんか、もう聞く必要ないですね。
じぶんがいい、と思うことをやれば、それでいいのだと思います。
実際に良いのかどうか、医学的に成果があるのかどうか、エビデンスがあるのかどうか、論理的に正しいかどうかなんて、じつはあんまり意味がない可能性がある。
人間にはプラシーボという独特の機能があって、これがいつも、実験の邪魔をします。
逆に言えば、実験の邪魔になるほどの強い効果がある、ということです。
論文を書くひとならプラシーボを憎むべきかもしれませんが、心身の健康がほしいのなら、それが正しいかどうかなんていう屁理屈よりも「効くに決まっている」という信念こそが、重要ということです。
わたしが効く、と思えば、それは効く。
こんなに「重大な機能」を、「理屈っぽさ」「疑うこころ」「知識」が、ぜんぶ「おじゃん」にしてしまうんですよね。
そういえば幼少のころ、ものすごくおなかが痛くなったときに、母親がビオフェルミンを持ってきて
「ほら、これ飲んだらすぐに効くから!」
と言って飲ませてくれました。
そしたら「10秒後に」ぼくは腹痛がすっかり治ってしまいました。
父親が、
「んなわけあるか。そんなにすぐに効いたら、薬事法違反だわ、はっはっはっ・・・」
と笑っていたのを思い出します。
しかし、効いたのは確かでした。
外で走り回っていて頭をしこたま何かの角にぶつけて、大量に血を流していたときがありました。
顔面が真っ赤になるほどで、全然血が止まらないのです。
そのときにぼくは大声で泣いていたのですが、父親が一喝、
「泣いとったら、血は止まらんぞっ!」
と言いました。
そしたらふしぎに、ぼくはピタっと泣き止んで、血も止まってしまったのです。
医学的には、ビオフェルミンの件も、怪我の血の件も、「そんなわけはない」のです。
でも実際に、そうなった。
おそらく、まだ小さな子どもだったぼくは両親の言うことを「完全に信じた」のだと思います。
だからこそ、まさに「うそみたいに」効いたのだと思います。
信じるちから、思うちから。
大人になるほどに、このちからはどんどん減っていきます。
ほんとうは奇跡だって起こせるかもしれない、偉大な魔法のちからなのに。
勉強や知識などという「ネガティブなこと」によって、どんどん「ちから」は削られていってしまうのですよね。
かしこさこそが、奇跡を阻害する。
いまからでも、遅くない。
信じる力を、とりもどしていきたいです。