自分でも、思い込みが強いなあと感じることがあります。
考えてみれば、パニック発作じたいが「思い込み」なんですよね。
ほんとうはそんなにすごい病気でもなんでもないのに、大変な病気であると「思い込んで」しまう。
そのせいで異常に緊張して、パニックに陥ってしまう。
最初は、考え方が「大げさ」なんじゃないかな、と思ったりしたんです。
でも最近、大げさな考え方をしているというよりも、「決めつけちゃん」なんじゃないかな、と思うようになってきました。
すぐに「決めつける」んですよね。
これは、こうだ。
こうに、決まってるんだって。
そういうクセっていうか、がっちりと決めつけてしまう行動を、ちょっとは遠慮していこうかな、と思っています。
「悪い方向に考えるのをやめる」というだけじゃなくて、もうひとつ下の階層のほうから変えないといけないな、と思うんですよね。
起きた物事のいい面を見る、っていうのは、一見賢明な努力のように見えるけど、よくよく考えたらそもそも「決めつける」くせがあったら、うまくいかないですものね。
ものごとを、良い面・わるい面という二元世界に分別し、その片方に癒着するというのは、長い目でみたらやっていることは同じ。
スタート時点で、ものごとを「良い」とか「わるい」というふうに「決めつけて」いるじゃないですか。
なんていうか、いろいろやってるようだけれど、結局は狭い空間のなかでごちょごちょやっているだけのような感じもする。
そもそもの話として、「良い」も「悪い」も決めつけない、っていうのが必要なんじゃないか。
たとえば……。
ぼくは最近掃除をいっしょうけんめいしているのに、なぜか喘息っぽい感じ出ているんですけど、まずはこう考えるんですよね。
「掃除をすることで、ホコリやカビをよく吸うようになって、アレルギー反応が出ているんだ」
うん、そうなのかもしれないです。
理屈としては間違ってないし、その可能性はあります。
でも、それが本当かどうかは、わからないんですよね。
それに、もしアレルギー反応だったとしたら、どうしたらいいんですか?
アレルギーなんて、結局お医者さんでも改善方法がわからないんですよね。
「これはアレルギーである」
そう決めつけると、ぎゃくに心配が増えるだけなんですよねえ。
掃除をすると、つよい体調不良に悩まされるようになる。
そういう人は、けっこう多いようなのです。
そこで、そのような現象については医学的視点からではなく「好転反応である」と考える向きもあるのだそうです。
身体や精神が良い方向に向かおうとしているとき、一時的に強い症状が出ることがあるのだそうです。
もちろん、これは医学的に正しいのかどうか、わかりません。
でもそういうふうに感じているひとがいて、そうなったと思っているひとがいるのも事実です。
そこでぼくは、このような「好転反応」というのは「ウソだ」と決めつけるわけです。
なぜウソなのか、という論拠もあまりないのですが、なんとなく非科学的な気がして、迷信ぽいような気がしてしまうのです。
だからそのような解釈は「まちがいである」と思うのです。
でも、どうなんでしょうか。
徹底的な掃除のあと、数ヶ月ひどい体調不良が続くことを、「好転反応ではない」とは、言い切れないのです。
またいっぽう「アレルギー反応である」とも、言い切れないのです。
結局は、そのひとが「そうだ」と思ったことが、事実になっていくところもある。
あいまいなんですよね、事実なんて。
そこで、わかったのです。
はっきり言ってしまえば、好転反応という考え方がぼくは「きらい」なだけだったのです。
「本質的」とか「事実」とか「論理的」ということに執着するがあまり、あまり論理的と思えないことを、真っ向から否定する姿勢がある。
これはあまり、公正とはいえないです。
それに、もっともらしいことを言っているわりには、けっきょく好き嫌いで判断していたのです。
だからぼくは「好転反応である」ということを否定するのも、やめようかな、と思います。
それは、もしかしたら、そうなのかもしれない。
否定できないのなら、そうなのかもしれないのです。
どうしても病院に行かなくてはいけないほどの重篤な感じではなく、日に日に症状はマシになってきています。
きっとそのうち、治るのだと思います。
ならば、今は「好転反応である」と思っておいても、いいんじゃないのか。
本質や事実にこだわりすぎて、こころが固く、狭くなってしまっているんですよね。
だからつい「正しいこと」を断定しようとしてしまう。
この性向というのは、ある意味カルト系の考え方と同じです。
思い込みが激しく、異論や反論を受け付ける余地を失い、いったん「こうだ」と解釈したら屁理屈を使ってでもそれを正当化しようとする。
これはあまり、クレバーな方向性とはいえないです。
それはそうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
正しいことなんか、ほんとうはぼくには、わからない。
そのような「ふわっとした部分」を、もう少し大事にしていったほうが良いのかもしれません。
良し悪しとか、光と影とか、陰陽とか、正誤とか、善悪という二元論に落ち込むと、こころが機械のようになっていってしまうんですよね。
だからぼくは、最近思うことがあります。
創価学会もゆるそうかな、って。
ゆるす、なんてちょっとエラそうですけど、じつはこころのなかで毛嫌いをしていたんです。
母親や親戚が熱心な創価学会員で、母親はそのうち脱退しましたが、親戚はいまだに信心しています。
ぼくの価値観にはまったく合わないし、論理的矛盾もひどいから、信じる気にはなれません。
でもこの「信じられない」というのは、ぼくがそう思っているだけです。
それが正しいのか、間違っているのか、それはほんとうは、だれにもわからない。
それを正しいと思った人には正しくて、間違っていると思っているひとには間違っているだけです。
だから創価学会については、ぼくのようなものが「合ってる・間違っている」言うのは、ちょっとちがうんじゃないかな、と思い始めたのです。
やっているひとが、それを正しいと信じているのなら、べつに邪魔をする必要はない。
無理やり折伏に来られても、納得がいかなければ、結局信心はできないのです。
だから結局、なにも変わらない。
相手がゴリ押ししてこようが、ぼくが毛嫌いしようが、結果はなにも、変わらない。
じゃあ、もう、いいかな、って思ったんですよね。
ぼくが正しいと思っていることは、だれかにとっては、間違ったことかもしれない。
でもぼくは、こうしてちゃんと、生きている。
合ってる、間違ってるなんて、あまり大きな問題じゃなかったんですよね。
結局人は自分に都合のいいことしか信じないのだから、肩肘張らずに、普段からそうしておけばいいのかもしれません。
これは好転反応で、どんどん良くなっている証拠である。
そう思おうが、思うまいが、結果はあまり、変わらない。
むしろ、よくなると信じていれば、そうなっていく可能性は高いです。
正しいことじゃなくて、都合のいいほうを信じておけば、それでだいたい、事足りる。
あたまの中身って、じつは「わかっているつもり」ばっかりなんですよねー。