ふと思ったんだけれども、繊細なひとは、やわらかくならないと、壊れてしまうのではないか。
繊細な人、っているんですよね。
細かいことにも敏感で、それが気になってしまったり、影響を受けたりしてしまう。
そのせいで人よりも疲れやすくなったり、こころを痛めてしまったりもする。
ぼくにも若干、その傾向があります。
わりと敏感なところがあって、ひとの気持ちがわかってしまったり、見えてしまったりする。
影響もかなり受けやすい傾向もあります。
こういう性分のひとは、パニック障害とか自律神経失調症とかになってしまうことも多いのだそうです。
なので「もっとドンカンになりたい!」と思ったこともあります。
でもやっぱりこれは、なかなか難しいんですよね。
性格、いやこれは性格というよりも「そういう神経」なんじゃないかな、と思うんですね。
ドンカンになろうとして、ほんとうにドンカンになれたひとを、ぼくはついぞ見たことがありません。
だからもうそういうのを治すというか、変えようとするのは、しなくていいんじゃないかな、と思うようになりました。
それよりも、繊細なひとに必要なのは「やわらかくなる」っていうことなんじゃないかな、と思ったんですよね。
ドンカンになるんじゃなくて、やわらかくなる。
こころが針みたいに、細くてピーンと尖っているんですよね。
これは「そのひとのかたち」だから、なかなか変わらないです。
細くて尖っているものが、堅かったら、どうなるか。
パチン、とすぐに折れてしまうんですよね。
あるいは、触ると怪我をしてしまいます。
細くても、尖っていても、やわらかければ、大丈夫なんですよね。
折れないし、割れないし、怪我もしない。
むしろ、細くて尖っているものが柔らかければ、それは「ここちよい」になるんですね。
繊細で柔らかいものは、モフモフなのです。
繊細で堅いものは、凶器になります。
堅い。
堅いというのは、まじめとか、融通が効かないとか、あたまがわるいとかじゃなくて、単純に「否定が多い」ってことなのかもしれませんね。
なんとなく、「こころの口癖」も、否定っぽいのが多いような。
でも……。とか、
しかし……。とか、
だめだ……。とか、
ちがう……。とか、
どうして……。とか、
あーあ……。とか、
めんどくさいなあ……。とか、
アカン……。とか、
しまった……。とか。
「いいんじゃない」
何を見ても聞いても、そう言う人っているんですよね。
で、そういう人って、「やわらかい」人が多いような気がする。
否定が多いひとって、尖っているんですよね。
漫才でいうところの、ツッコミみたいに。
ツッコミって、つまりは「否定・訂正・修正」なんですよね。
それはちがう、これがただしい、っていう。
否定は一種の「武器」でもある。
堅苦しいのは、堅いから、苦しいんですよね。
堅苦しい世界には、否定が多いです。
あれはアカン、これはアカン。
あれしたらアカン、これしたらアカン。
あれはちがう、これはちがう。
こうでないとイカン。
ああしないとイカン。
多すぎる否定は、アタマを狂わせるのかもしれませんよね。
生きるということじたいが大肯定なのに、そこに否定という「死の要素」をいっぱい持ち込む。
でも生きようとすると、そこには戦争が起きる。
肯定と否定の大戦争ですね。
そこに「堅くて、細くて、尖っている」ものがあったら、バッキバキに破壊されてしまう。
被害甚大につき、疲労困憊してしまう。
いいんじゃない。
いろんなことを、そう思うようにしていこうと思います。
体調のわるい自分を「それでも、いいんじゃない」って思えたら、だいぶやわらかくなれそうです。
折れるのは、壊れるのは、堅いからだ。
あれ これ
ゆれ うごいて
いっぱい
くるしんで しまうのかな
いま は まだ
いつか とべる 日 まで ˘ ˘*ね