理屈っぽくなると、念力が消える。

たまに、思い出します。

大学時代は心理学系の学部にいたのですが、そこでは毎年恒例の「超能力実験」がありました。

結果はほぼ毎年層同じなのですが、結論から言うと超能力は科学的に「ある」ということになります。

 

ESPカードというのがあって、そこには星型や丸や四角などの単純な記号が書かれています。

目隠しをされた被験者に1枚のカードを示し、その記号を当てさせる、というものです。

カードは7種類あるので、言い当てる確率は14%ぐらいになるはずです。

ほとんどのひとは、それに近い確率を出します。

しかし一部のひとは、圧倒的な高い確率で記号を言い当てるのです。

偶然を排除するためにt検定やf検定という複雑な統計計算をしたところ、結果は「有意である」となる。

有意、というのは、統計学的に意味がある、ということです。

つまり偶然ではなく超能力が「ある」人が存在している、ということになります。

 

そしてその「超能力あり」とされた人には共通点がありました。

体育会の学生が非常に多いのでした。

そして面白いことで、当てる確率が低い、つまり「超能力なし」に該当するのが「教授・学者」だったのでした。

 

一人、これは明らかに超能力がある、という人がいました。

彼はぼくの友人でもあったのですが、90%以上の確率で言い当てるのです。

彼に実験のあとに聞いてみると、

見えるねん。記号がおでこのウラに、出てくるねん

と言っていました。

 

彼は、あまり勉強ができるタイプではありませんでした。

大学にはスポーツ推薦で入ってきていたので、勉強して入学したわけではなかったようです。

また彼はかなりのイケメンなので女性にモテるはずなのですが彼女はいなくて、そもそもあまりそういうことに興味はないようでした。

ホモとかではなくて、なんていうか、小学生みたいな感じなんですね。

無邪気で、いつもにこにこしていて、すなおで、単純。

男女限らず友達は多いのですが、彼女がどうこうというのにはあまり関心がないようで、興味関心は自分が所属している部活にだけ集中されているようでした。

 

体育会系の人に超能力としか思えないような能力が集まっていることについては、スポーツというのは予測不能な事態によく遭遇するため、そのような第六感のようなものが強化されていくのではないか、という仮説が主流でした。

確かに、どんなスポーツでも相手の動きや考えなどを「読む」必要はかなり高いです。

なのでこれは、けっこう説得力があります。

 

でも最近ぼくは、これは誤った仮説だろうと思っています。

そうではなく、単純に「あまり勉強をしていない」ということではないか、と思うのです。

体育会の学生の多くは、あまり勉強に対しては熱心ではありません。

せいぜい落第しない程度にやっておこう、てなもんです。

最も超能力傾向が低いのが教授や学者ということからも、その可能性は高いような気がします。

 

仏教のたとえば密教などでは、常軌を逸したような苦行をすることがあります。

下手すれば命を落としかねないような危険なこともやります。

密教では「験力」「法力」といって、一種の超能力のようなものを獲得することが目的のひとつになっているところがあります。

どうして超能力の獲得のために、命がけでカラダをいじめる必要があるのか?

もしかしたら、「論理の消滅」を目論んでいるのでは、と思うのです。

理屈でいえば、あんなつらい修行を延々と続けることに、なんら意味はありません。

しかしこの「意味がない」ところにこそ、重大な意味があるのではないか。

実験結果からいえば、理に走ってしまうと、超能力は消えてしまうのです。

勉強して、知識を詰め込み、論理的な思考をはじめると、第六感が消滅してしまう。

だから密教系の修行というのは、ある意味で「ばかになるため」というのもあるのかもしれません。

 

そうえいば、禅ではあまり験力や法力ということは言いません。

しかし過去の禅師のなかには超能力としか言いようのない能力を持っているかたもいたようです。

一喝で相手を金縛りにしたりふっとばしたりした、というような話も聞いたことがあります。

まあ多分に脚色されていたり、単なる心理効果だった可能性もありますが、「人とは違った能力を持っていた」というのは、もしかしたら多少あったのかもしれません。

禅では、理屈っぽくなることは強く戒められていますし、文字や知識なんか一切役に立たないと言われています。

 

なお、ロールプレイングゲームの世界では超能力を操る「魔道士」などは「知力が高い」という設定のことが多いです。

おそらく、これは根本的に間違っているのだろうと思います。

超能力は、バカのほうが強いかもしれないのです。

動物たちがもはや超能力としか思えないようなカンの鋭さを発揮することがありますが、これも脳の中に「論理」というものがないから、かもしれませんね。

子供のころは霊感的なことや超能力のようなものがあっても、大人になるにつれてそれが消えていく、という人が多いです。

もしかすると「教育」のせいかもしれませんね。

義務化されてしまった教育ということが人間本来の能力を阻害してしまうのかもしれません。

 

最近禅をするようになって、感じることがあります。

勉強や知識というものはネガティブである、ということです。

勉強をすることや理論的に考えること、計算能力や記憶力を高めることを、ぼくたちは「良いこと」であり「必要不可欠なこと」だと思っています。

しかしおそらく、この価値観は「そういうプロパガンダ」によって植え付けられたのだと思います。

確かに知力向上によって得られるものは多いですが、もしかすると、そのかわりに「直感・霊感」という天与の能力を犠牲にしていっているのかもしれません。

もしそうならば、総合的には「いってこい」ですね。

 

すおなおさや、思いの強さ。

そういうのは勉強すればするほどに、減っていくのかもしれません。

理屈というのは、思ったよりも役に立たないことも多いです。

人間はほんとうは、山中の野生動物たちと同じく、必要なことはじぶんで生み出し、感じ取る能力を生まれつき持っていたのかもしれません。

それを復活させるためには「理屈を捨てる」ことが、とても重要なのかも。

各宗教のほとんどの修行は、もしかしたらすべて「バカを取り戻す」ためなのかもしれませんね。

バカは、世界最強である。

これはあながち、比喩でも誇張でもないのかも。

 

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