パニック障害やウツ、自律神経失調症などには「繰り返し運動」が効く、という話は有名です。
ウォーキングや腕振り体操、呼吸法など、一定のリズムで繰り返し行う運動はセロトニンの分泌を促し、精神の安定をもたらしてくれる、というのです。
そこでぼくは、少し勘違いをしていたようです。
セロトニンを出すには繰り返し運動が良いというのなら、これを不退転の決意をもって毎日継続しよう。
目標を設定し、日々達成していこう。
15分が良いというのなら、30分、いや1時間やろう。
このように考えていました。
じつは、そーゆーことではなかったようなのです。
じつはセロトニンというのは、運動すればするほどよいというような雑な仕組みではなかったようです。
もっと合理的で、らくちんなシステムみたい。
「セロトニンを出すためには運動が必要だ」ということじたいは合っているけれども、「ずっとやり続けないといけない」とか「運動すればするほどセロトニンは増える」ということではないのだそうです。
運動は「セロトニンスイッチをオンにする」ということだったようなのです。
セロトニンというのは、いったんスイッチが入ると、あとはなにもしなくても一日中出続けるものなのだそうです。
そしてこのスイッチを「オン」にするのにかかる時間は、5分から15分なんだとか。
だから30分とか1時間とかやりつづけたって、まったく意味のないことで、場合によっては疲労につながって逆効果のこともあるんだそうです。
そういえばかつて「一日1万歩を連続100日」をやっていたころ、「2700」という数字が頭にありました。
ウォーキングを開始してある一定の時間が経過すると、心身に変化が起こるのです。
気分があかるく、元気になってくる。
そのタイミングがおおよそ「2700歩」でした。
だからこの歩数になにか意味があるのでは、と考えていたことがあります。
2700歩というと、だいたい15分ぐらいなのですね。
それ以下だとせっかく頑張って歩きに出たのに、あまり効果が感じられないのです。
またそれ以上継続しても、とくに効果が上乗せされる感じもない。
2700歩つまり、15分ぐらいが一種のゴールというか、区切りのように感じていました。
また坐禅も、これによく似ているのです。
3分とか5分ではとくに何かが変化する感じはありません。
しかし15分を経過したぐらいから精神がなんとなく落ち着いてきて、集中モードというか、ちょっと普段とはちがう位相に移行していく感じがあります。
ぼくは最大でも30分を超えて坐禅をすることはありませんから、もっと長くやることでどのような変化があるのか、あるいは変化しないのか、そのへんはわかりません。
しかし「15分」というのが一種の区切りになっている、ということだけは感じます。
なので毎日の坐禅は「18分間」行うことにしています。
ちなみに、パニック発作もおおむね15分で収まるというのがあります。
たまにもっと継続する場合もありますが、じつは途中で一回落ち着きを取り戻したものの、また再開してしまったということのほうが多いです。
発作でさえ「15分」というのが一種の区切りになっているようなところがある。
もしかしたらぼくの「スイッチ切り替え」にかかる時間が、およそ15分ということなのかもしれません。
セロトニン・スイッチは、早ければ1分、あるいは5分でも「オン」になるのだそうです。
しかしこのスイッチが錆びついている場合は、15分、あるいは30分かかることもある。
ぼくのスイッチは、すこし錆びてしまっているのかもしれません。
しかし日々このスイッチをオンにする習慣を続けていくと、時間も短縮されていくんだそうです。
朝起きて、朝日を浴びながら、15分歩く。
そういえば、ウォーキングをはじめたころは、30分歩いてもなにも変化しませんでした。
しかし100日に近づいたころ、「2700」という区切りを感じるようになった。
継続していくことで、スイッチが切り替わる時間が短縮していったのかもしれません。
そういえば坐禅もまずは「3ヶ月」というのが目安だと聞いたことがあります。
なにかが変化するまでには、3日、3ヶ月、3年という区切りがある、というのです。
とくに3ヶ月めに最初の大きな変化がある、と。
「100日連続・一日一万歩」、100日というのはおよそ3ヶ月ですね。
壊れたスイッチの機能を取り戻すのに、3ヶ月。
そうしたら、15分でセロトニンのスイッチが入るようになる。
そしてそこから継続していけば、15分かかっていたものが、もっと短くなっていく。
おそらくは、そんな感じじゃないかな、と思います。
掃除でさえ、そうなんですよね。
「一回本気でカンペキにやったら、きれいになるはずだ」
最初はみんな、そう思う。
でも実際には3ヶ月ぐらい毎日やらないと、ほんとうにはキレイにならない。
ホコリや汚れというのは、溜め込んだ日が長いほど、きれいになるのにも時間がかかるんですよね。
なにごとも「おまとめ」でやったって、ただしんどいだけで、あまり意味はない。
わたしは追い詰められないとできないんだ、追い詰められたら強いんだとか中二病みたいなことをいって、ある日に全部一気にやったところで、それはじつは「なんにもできていない」のですよね。
なにごとも、すこしづつ、しかし毎日つづけることが、肝要である。
結局は、そういうことなのかもしれませんね。