もともと、そういうのは「好き」なんでしょうね。
神秘的なものごととか、怪しげなやつとか。
パニック障害がひどかったころは、へんなパワーストーンとかを買ったりしたこともありました。
体調というか、こころの調子がいまいちだと、どうしてもそっちに転びそうになることがあります。
しかし最近確実に感じるのは、スピ系を意識の外に駆逐してしまったほうが、断然調子が良くなる、ということです。
調子が悪いからスピ系に行ってしまうのではなく、スピ系に傾注するという行動が、意識を規定しているのだろう、と思いました。
じぶんのことをすこし引いて眺めてみると、スピ系に傾いている時というのは、まず自信を喪失している、というのがあります。
なんらかの不安を抱えているのですね。
そしてその不安を解消する努力は案外していなくて、けっこう的はずれな努力をして、それが功を奏しないといって不安を追加している。
どうして的はずれな努力をしてしまうかというと、単純に「脳機能の低下」が起こっているようなのです。
この脳機能の低下によって、本来関係性のあるもの同士を結合する能力が衰えてしまい、逆に関係のないもの同士を結びつけてしまうという「連合弛緩」が起こっている。
そしてなぜこの連合弛緩が起こるかというと、脳の血流低下か、あるいは血液の酸素不足のようなのです。
多大なストレスがあって筋緊張が起こり、血流が阻害されて、脳への血流が減少してしまうのかもしれません。
あるいは単純に運動不足とか、栄養不足などで起こっているのかもしれません。
もしかしたらアルコールなどの過剰摂取の習慣があるのかもしれません。
べつにスピ系にゾッコンなひとが全員バカであるということではなくて、何らかの理由で「一時的に」判断力が低下してしまっているのだと思います。
統計的にも、占いやスピリチュアルに傾注しがちなひとは知能指数が低い傾向があるようです。
おそらく、生まれつき体質的に連合弛緩が強いタイプのひとと、ストレスやアルコールの過剰摂取など生活刺激によって一時的に連合弛緩が起こっている場合の、二種類があると思います。
後者のひとの場合は、意識的にスピリチュアルを断捨離することが必要なのではないか、と思うようになりました。
というのも、やはり連合弛緩が起きていない状態つまり、あたまがはっきりしている状態では、スピリチュアル的な考え方のほとんどは、論理的整合性があまりにも低いからです。
つまり端的に言うと、妄想的で雑然とした思考体系である。
このような統合不可能な複雑な思考体系に常時接していると、脳疲労が強くなってしまうと思うのです。
そうすると、よけいに脳というか「こころ」が疲れて、正常な判断を失う。
単純なものごとを理解するのにはそれほどパワーはいりませんが、複雑なことを理解しようとするのにはパワーが必要です。
しかし残念ながら、すでにパワーが落ちている状態に限って、このような複雑系の思考体系に寄っていってしまうことが多い。
悪循環を引き起こしてしまうループが、なぜか存在している。
このへんが、人間のこころのむずかしいところなのだろうと思います。
本来なら、自己治癒的なことで正の方向に向かっていくメカニズムがきちんとあるはずなのに、人の心というのはなぜか「闇へ一直線に向かう」エネルギーも持っている。
肉体のほうは絶対的に「正」の方向へ向かおうとするのに、思考や感情は「負」の方向性をむしろ助長していく部分があるのです。
おそらくこの「負の強化特性」をもって、古来より「悪魔」と呼んでいたのではないかと思います。
調子の悪いときに限って、なぜか怪しげなスピリチュアル的な方向に向かってしまう。
ほんとうはそんなことをしているヒマがあるのなら、課題を整理し、優先順位をつけて、現実的な解決施策を講じていくべきです。
なのになぜか、妄想的であやふやな論理体系のほうに、つよい魅力を感じてしまう。
「現実逃避」という側面があるのだろうと思います。
現実世界でいやなことが多すぎて、現実というものを十把一絡げに拒否しはじめるのかもしれません。
とはいうものの、とつぜん離島に逃げていってしまうなどということは、社会的生物であるがゆえに、本能的にも、社会的にも、そうはいかない。
だからこころだけが妄想世界に逃げて行こうとするのかもしれません。
スピリチュアル系に傾注するひとは統計的に低所得者に多いといわれています。
低所得だからスピリチュアルにハマるのか、スピリチュアルにハマったから低所得になったのか。
風水で方位やベッドの位置を云々したり、財布をトラの日に買うなどの迷信を信じ込むということは、ようするに「論理的思考をすでに放棄してしまっている」ということでもあります。
そうなると当然、論理的なお金の使い方はしないだろうし、仕事などで論理的演繹的な演算はできなくなっていきます。
そこで所得の低下や生活費の不足などが起きてくるのかもしれません。
だから「スピにはまったこと」のほうが、タマゴなのだろうと思います。
ちなみに、金運には長財布が良いという風説もありますが、実際には社長などのエグゼクティブは二つ折りのコンパクトな財布を使っていることのほうが多いそうです。
あたりまえですね。
お金を稼ぐ人は、使うひとではないので、持ち歩く必要性はそんなにないです。
それに賢い人は現金のような危険なものを大量に持ち歩くわけがなく、リスクヘッジのためにも必要な量だけを持ち歩くものです。
したがって財布は必要最低限の機能のある、コンパクトなものになっていくはずです。
とにかく、少なくともいえることは、スピリチュアル的な思考や方法論というのは現実的にはなんのパワーも持っていないということです。
実際に人生を変え、自分を変えるのは、具体的かつ適切な「現実の行動」だけです。
ただ人間は生きていく上で非常につらいことも時にはあり、そういった谷間に摩訶不思議な思考体系に逃避することは、必ずしも悪いことではないのかもしれません。
しかしその安全領域であるていど疲労が取れたなら、すみやかに現実世界に戻ることが必要なのでしょう。
そうしないと、こころの「負の強化特性」によって、どんどん闇に引き込まれていくことになる。
断捨離という本来は仏教的なドライな思想についても、スピリチュアル的に解説しているサイトもよく見かけます。
エネルギーの波動が上昇するとか、運が好転するなど、本来の意味からすると荒唐無稽としか言えないような言説も流布している。
そういったことが「悪」だとは思いませんが、いずれはスピリチュアル的な思考そのものを断捨離していくべきなのだろうな、と思います。
霊的なランクが高いと言っている人ほど、皮肉なことで、人間性のランクが低いことが多い。
これはおそらく「逃げ続けた結果」だと思うのです。
人間性というのは、妄想や思考、イデオロギーの中ではなく、現実の世界で傷つき、汚れ、戦ってこそ上昇していくものだと思います。
だから「私には社会的なチカラはないが、霊格は高い」などという、ある種治外法権の別天地で安寧に安んじていると、人間性はいつまでたっても向上しないのだと思います。
人も自分も、何者も支配できず、イデオロギーに支配されるだけの被支配層に甘んじて生きていっていることにさえ気がつかないまま、長い時間を過ごすことになる。
オカルトやスピリチュアル、不可思議なこと。
そういうものは、こころの中から徹底的に「排除」していくほうが楽になれるのだろうと思います。
どちらかというと好きな分野だけに残念なところもありますが、ぼくは思い切って、そういうのを「断捨離」していこうと思います。
スピリチュアルは、苦しみを誤魔化してくれることはあっても、助けてくれたことは一度たりともありませんでした。
また、ぼく自身を成長させてくれたことも、一度たりともありませんでした。
よって、不要と断ずる。
そのようなものに近づくほどに、怠惰で弱い人間になってしまう。
ちゃんとしよう。