仏道と炎症

仏教というと、その哲学的側面や宗教的価値、精神論のようなことに視線が行きがちです。

しかし別の側面から見ると、仏教というのは案外「体育会系」なのではないか、と思うことがあります。

精神論ではなく、実践系とでもいうか・・・

 

仏教が推奨していることをセロトニンとドーパミンという側面から見てみると、徹底した「セロトニン活性術式」という姿が浮かんできます。

歌舞楽曲や勝負事を遠ざけ、たのしい・うれしい・わくわく・キャッホーという「ドーパミン系」を排除し、ゆったり・のんびり・平和・安寧という「セロトニン系」をめざす。

ドーパミンにはセロトニンを抑止する効果もあるという説もあって、いわゆる「欲の達成」を抑止することは、セロトニン産生のプレーキ解除である、ともとれます。

 

最近思うのは、あともうひとつ、仏教には「抗炎症」のベクトルもあるな、ということです。

燃え上がるような情熱とか、炎のような愛とかは、仏教では推奨されていません。

炎症的心身の反応ということを、できるだけ避けるような気風があります。

その典型例として「菜食」があるのでは、と思ったのです。

 

動物性たんぱく質には炎症を強化する側面があるのだそうです。

仏教では殺生を禁じ、したがって動物性タンパク質の摂取には積極的ではありません。

最近ではウツや統合失調症、各種神経症などの病気は「炎症」ではないか、という学説もあります。

もしかすると仏教ではいち早く「こころの動きと身体の炎症」ということに気がついていて、できるだけ炎症作用を抑えようとしてきた歴史もあるのではないか、と思ったりしたのですよね。

 

こころの動きについてはついつい「わたしの本質から出ている」「自主的能動的な機能的動き」と思いたがるものです。

でもよくよく観察してみると、心の動きの80%以上はただの「反応」にすぎないことがわかる。

外的刺激による反応と、内的刺激による反応の相互作用で心の動きが規定されているところが大きい。

むろん反応に類しないこころの動きというのもあって、それがじつは「自分自身を観察する自己」つまり「梵」という機能である、ということなのかもしれません。

 

それはさておき「炎症の低減」ということは、やってみてもいいのかなと思うのです。

お酒をやめてみてわかったのですが、お酒の常用は身体の炎症を強化し、それがこころの炎症をもたらすようなのですね。

アルコールによる神経の炎症を「やる気」と勘違いしているところがある。

お酒に限らずぼくたちは、実体としてはただの神経炎症にともなう情動なのに、それをやる気であるとか情熱であるとか魂であるとかいって、あたかも人間独自の尊い機能であるというふうに大げさに解釈しがちなところがあります。

この方向性を「是」としてしまうと、炎症的人生の肯定にもつながってしまう。

 

それはそれでべつにいいんですけれども、根っこがないぶん、落ち着きを失ってしまうんですよね。

コストが高い。

面白いことがないと生きていけないとか、なにか刺激がないと楽しくないとか、一種の依存症のようになってしまって、「なんにもないけど、まあまあ楽しい」という、いちばん低コストで楽ちんな生活様式を放棄しなくてはならなくなります。

なんか損、という気もするんですよねえ。

 

からだの炎症を抑えていくと、こころの炎も落ち着いてくるようなのです。

これは決して生命力の低下などではなく、むしろ低燃費システムがゆえに無理が少なく故障少なく、効率的なエネルギーの使い方ができ、総体的な生命力は向上するのではないか、という気がしています。

からだの炎症を助長することでそれを「こころのホノオである」などと勘違いしてしまうほうが、負荷の高い高燃費人生になってしまって、なんかいろいろ故障が多くなってしまいそうな気もするのですよね。

 

住めば都、そっちに行ってしまえばそれは案外、たのしかったりするのかもしれません。

ハタから見れば静謐で、地味で、特色も個性もないが、本人的には強固な安心感と幸福感を持っている。

それはそれですばらしい生き方じゃないかな、と思うようになりました。

オウ、イェイ、燃えてるんだぜ、イケてるんだぜベイベー、みたいなのは一見高気圧で充実して楽しそうだけれども、じつはそのじつ身体の炎症反応に操作されているだけの主体性のない生きかただったりして、なんだかむしろそのほうが被支配者層的で貧乏臭い感じもする。

炎症、しずめてみようと思います。

 

 

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