そういえば……なんですけれども、そういえばパニック障害のひとには花粉症が少ないような気がする。
いや、それはぼくの身近な人の話に限った話で、花粉症かつパニック障害な人もいるのかもしれない。
ただぼくと同じことを思った人はいるようです。
https://pdkokufuku.exblog.jp/1600733/
「パニック発作を引き起こす、あの感覚」
これはコトバで言い表すのがとても難しいのですけれども、基本的には「首から上の違和感」のことが多いです。
なんかこう、むわっとするというか、イイイとなるというか、のぼせているような感じとか。
それが長時間続くとアワワワとなって、イヤッホウ、アカーン! となって、発作が出る。
あくまでぼくの場合ですが、この「パニック発作を引き起こす、あの感覚」は、高確率でハウスダストである、ということがわかってきました。
たとえば、今日衣替えのためにタンスの中身をひっくり返しておりましたら「あの感覚」が出ました。
発作には至りませんが、あのなんとも言い難い、異様な、不快な感じが出てきてしまった。
最近は掃除をしっかりするようになって神経的にはけっこう落ち着いていたので、きゅうにそんな感じになったが不思議だったのです。
なんのことはない、洋服を引っ張り出したことでホコリにやられていたようなのです。
で、気がついたのが、「冬服よりも夏服のほうがホコリが多い」ということです。
冬服というのはウールや化繊が多いので、じつはそれほどホコリが出ないのです。
しかし夏服は木綿が多いので、大量にホコリが出る。
とくに古いTシャツなどは、びっくりするぐらい出ます。
ぼくは冬より夏のほうが具合が悪いのですが、これは案外「古い木綿の繊維」に過剰に反応していたからではないか、なんて思ったりしました。
それはさておき、上記のブログの方は「臓器選択性」ということを仮説しておられます。
ストレス性の疾患には「臓器選択性」というものがあるそうな。例えばストレスが胃に作用しやすい人には他の部位にはストレス性疾患は出にくい。胃だけがどんどん悪くなっていくのだ。(中略)
パニック障害ももしかすると「臓器選択的に」、そして「安全弁的に」起こっているものかもしれない。パニック障害になりやすい体質や性格の人が、ストレスにやられると選択的にパニック障害を発症しているのではないか、と思う。
なるほど確かに、痛みも基本的に1箇所しか感じないというのがあります。
だからストレスの影響も1箇所に集中する可能性はあるかもしれなくて、だからパニック障害の人には花粉症が少ないということもあるのかもしれません。知らんけど。
もしかすると、案外「排出機能」に関係していたりしてな、と思ったりもします。
花粉症のひとは、いわば「デトックス機能が強い」ともいえます。
異物に対してちゃんと反応し、それを排出しようとする機構がきちんと働いている。
それがちょっと過剰すぎるというだけの話で、機能としては何も異常ではありません。
しかしぼくの場合、花粉症どころか、一切なにも反応しないのです。
ふつう大量のホコリを吸ったらゲホゲホ、ヘックショイ、ビエエッショオーイなどと、盛大に反応してもよさそうなものです。
でもぜんぜん、出ないんですよね。
もちろんちょっと違和感あるな、鬱陶しいなとは感じます。
でも「排泄反応」には至らないのです。
これはちょっと心理学的に傾注しすぎた考え方かもしれないけど、「こころの反応のしかた」にも関係しているんじゃないかな、なんて思ったりもします。
まず花粉症の人というのは、好き嫌いが激しく、臆病な傾向があるんだそうです。
人や食べ物に対して好きらいがハッキリしていて、危険を好まない傾向がある。
これはつまり自分にとって不利な物事に対してそれをブロックするこころの反応が強いともいえます。
そこでぼくは、好き嫌いがほとんどまったくないのです。
ヒトに対してもそうで、心底キライだとか、キライなタイプとかいうのが特にありません。
ある意味ストライクゾーンが広いともいえます。
食べ物も、これだけは食べられない! なんてものは、ゲテモノ以外はありません。
好き嫌いがないというのは良いことのようにも見えますが、良いことには必ず悪いこともセットでついてくるものです。
好き嫌いがないというのは、もしかすると「こころのデットクス機能が弱い」可能性もあるんですよね。
つまり、ほんとうはイヤなことなのに、それを「飲み込む」傾向があるのではないか。
パニック障害の人には「呑気症」といって、空気をいっぱい胃袋に飲み込んでしまうクセがあることも多いようなのです。
これももしかして、ストレスを「飲み込んでしまう」というこころの反応のクセが影響しているのかもしれません。
長男長女に多いのも、幼少時から「いやなことを、ぐっと飲み込み」「わがままを言えない」というこころの習慣が影響しているのかも。
イヤなことを、すなおにイヤと言えない性分。
これが意外と、日常的なミニマルは抵抗反応である花粉症の発生を抑え、かわりに「パニック発作」という圧縮爆発的な巨大なデトックス反応として代理しているのではないか、みたいな。
つまり、生き方がへたくそ。
とにかく我慢すればいいんだ、わたしが損をすればいいんだ、あとでわたしが頑張って処理すればいいんだ的なアレがあって、ほんとはそんな考え方は人生ナメるにしてもナメすぎなんだけれども、長年培ってきた「こころの反応のクセ」のせいでついやってしまう。
イヤなもんはイヤと最初にガチコーンと宣言しておいて、「しょうがないからやってやるよ」っていうのが、いちばん自然で良いやり方なんですけどね。
でもついつい、ほんとうはイヤなことでも、うれしそうな顔をしてやってあげちゃう。
そしてコワイのがそういうことを続けていくと自己洗脳されてきて、イヤなことでも案外喜んでやっているような気がしてくる。
結果、ある日突然、ドカーーンとデトックスするんですよね。
アホちゃうんか。
と、ぼくは最近、じぶんの「こころの反応」について評価するようになりました。
坐禅を毎日やって、自分を外からそのまま見るクセがついてきたのかもしれません。
こころというのは、自分が感じている状態と実際の状態には、かなりの齟齬があるのです。
自分が苦しいと感じていることが、実際には案外そうでもないのと同じで、苦しくない、楽しいと感じていることも、案外そうではない。
じつは、こころというのは、まるで仔犬のように随時とってもすなおに反応をしているんですよね。
なのにそれを「道徳」「常識」などという邪な道具によってよけいな補正を行っているのです。
これは必要なことでもありますが、この補正具を多用しすぎるとすなおな拒否、すなおなデトックスができなくなってしまう。
それが化膿したときに、神経症などの「異常状態」に陥っていくような気がします。
花粉症にならないのは粘膜が強いのではなくて「出せないココロ」のひとつの身体的表現かもしれませんよね。
内に溜め込み、抑え込む思考のクセが、こころを牢獄に閉じ込めているのかもしれない。
好き嫌いが少ないんじゃなくて、好き嫌いを「隠蔽」しているのかもしれない。
隠蔽するということは、解決もしていなければ、捨ててもいないし、浄化もしていない。
だからあとで「おまとめ」で出るのかもしれないなあ、なんて。