経行のすすめ

まさかこんなに坐禅が続くとは思っていませんでした。

「雲堂」というスマホアプリを見たら、89回目となっていました。

これまでほとんど毎日やっていて、大風邪をひいたときと、異様に疲れていたときの3~4日を除いては、毎日やっています。

たぶんもっともっと続くだろうな、と予測しています。

理由はかんたん。

全然まったく、つらくないから。

 

もともと三日坊主体質ではないのですが、それでも1ヶ月継続ぐらいが平均、というのがありました。

それが3ヶ月近く続いているというのは、とりもなおさず「気持ちいい」からだと思います。

坐禅に功徳なし、とはいわれるけれど、そんなこともないです。

功徳なしというのはたぶん、功徳を求めてやるようでは坐禅の効果は得られないからじゃないのかな、と思います。

できるだけ何も考えず、前後際断し、過剰な目的志向性や希望、欲望からいったん離れてみることが主目的なのに、そこへ功徳や効果といった利益を求める動機を持ち込むというのは矛盾をしてしまいます。

 

とにかく、落ち着くのです。

うまいものを食った、うまい酒を飲んだ、勝負に勝った、すてきな恋愛をしたとかいう、そういった動的で劇的でわかりやすい快楽とは違うけど、静的でおとなしい、でもわりと確実で強固な快楽というのがあります。

さかだった神経がおとなしくなって、よく眠れたりもします。

 

坐禅もいいのですが、そのあとに行うべきといわれている「経行(きんひん)」が、これがまた「良い」のです。

部屋のなかでやるので、せいぜい2~3メートルしか歩かないのに、とても気持ちがいい。

そんなわけあるか、と思っていたんですけど、そんなこと、あるんだなあ。

やりかたは上の動画がわかりやすいです。

ただ、この動画では先生も左右にけっこう揺れていますが、ぼくは個人的に、この左右の揺れを抑えるとさらに心地よくなると思います。

 

牛歩よりももっと遅い、歩きかた。

1歩が、ふつうの半歩よりも小さいですからね。

足の半分しか、前に出さない。

息を吸うときに足をあげて、息を吐くときに足をおろす。

遅っせ! なにそれ! っていうぐらい、めちゃめちゃゆっくり。

しかしこの経行、いがいと難しいのです。

最初の頃は左右にブレまくるどころか、「半歩出す」ことさえも困難でした。

どうしてもガっと足を前に踏み出してしまうんですよね。

いつものスタスタ歩き、カツカツ歩きのクセが出てしまう。

ふしぎなもので、毎日坐禅をしているというのに、まったく脚が痺れない日もあれば、やたらとしびれる日もあります。

この脚の痺れを解消するのにも、経行は効果的です。

2メートルも歩けば、痺れはほとんど取れてしまう。

そして、ものすごく集中できている感じがあります。

もはや座禅をしているときよりも集中度合いは強いんじゃないか、って感じるほど。

 

だからたまに「坐禅よりも経行のほうが効果があるんじゃないか」とさえ思うことがあります。

でもこれは完全なる勘違いで、やってみたらわかる。

坐禅をせずに経行をやってみても、なんにも気持ちよくないのです。

ぜんぜん集中できないし。

そもそもどういうわけか、めちゃくちゃフラついてうまいことできません。

でも坐禅の直後にやるとものすごく安定するし、ゆっくり歩くことが気持ちよく感じるし、足の裏の感覚に集中できて、ずっとやっていたいな、ぐらいに思う。

 

片足立ちをするとか、ゆっくり歩くとか。

個人的に、これは自律神経の調整にとても役立つんじゃないかな、と感じています。

フラフラする、重心が定まっていないというのが、自律神経がヘタっている証拠だと思うのです。

ズレた重心を戻そうとする試み、重心をブラさないように行動する試みというのが、こころのブレを停止させて、自律神経のバランスを整えてくれる効果があるように感じます。

 

最近は、掃除と坐禅と経行さえやっとけば、もうそれでいいんじゃないか、とさえ思うようになってきました。

日常の諸問題は結局「こころがバタついている」ことが原因のことがほとんどで、このこころのバタつきを停止させる時間を短くてもいいから1日に1回挟み込んでおけば、けっこうな問題の改善につながるような気がしてきたのです。

じぶんが抱えている問題の原因が「わからない」ってことが、いちばんコワイです。

もしそれを見極める目があれば、問題は半ば解決したようなもの。

この目がつぶれてしまうのは多くの場合、こころがバタついちゃってるからなんですよね。

 

むろん、ぼくはまだまったくの未熟者なので、その「目」が開いたわけではありません。

でも0.5ミリぐらいは開いてきたのかな、と感じることはあります。

お酒を飲んでいるときと飲んでいないときで考えることがまったく違うのと同じぐらい、坐禅を続けているときとそうでないときに考えることは違う。

おなじ刺激でも、落ち着いているときにそれを感じるのと、こころがざわついているときにそれを感じるのとでは、ぜんぜん違う。

 

掃除と、坐禅と、経行は、たぶんセットなんですね。

このうちのどれかが欠けても、なんか「いまいち」な気がします。

どれかひとつを徹底的に完璧に長時間やるぐらいなら、ぜんぶ中途半端で不完全でもいいから、3つともやったほうがいいと思う。

 

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