ちいさな限界、おおきな限界

よー寝た。

よー寝たなあ。

いつもの土日なら掃除だのウォーキングだのいろいろ考えて、わりとちょこまかと動いています。

でもこのたびは、寝ましたねえ。

 

風邪っぽかったんです。

最近わかってきたんですけど、ふだんから自律神経がどうのこうの言ってるけれども、ぼくの不調はどうも要するに、いわゆる「風邪」みたいな感じなんですよね。

熱っぽくなって、なんか息苦しくなって、節々が痛む。

それがトリガーになって、イライラしたりソワソワしたりもして、ひどいときにはパニック発作に至ることもあります。

 

さて風邪は、どうやって治すか。

「あったかくして寝る」

ビタミンとか生姜とか血流とか気の流れとか背骨の歪みとかバイキンとかいろいろいうやついるけど、基本はこれなんですよね。

もう四の五のややこしいこと言わんと、症状が風邪みたいな感じなんだったら、じゃあ風邪を治すようなことをしろや。

 

そんなじゃっかんアホっぽいことを思いついて、じっさいにゴロゴロしながら映画見たりしてました。

ぼくは普段、昼寝とかほとんどしないんですけど、このたびはすげえ寝るのです。

横になっただけでウトウトしてきて、はっと気がつくと1時間ぐらい経ってる。

朝はいつもどおり5時ぐらいに起きたんですけど、掃除して朝飯食って、いろいろしてたら9時。

ゴロゴロしてたら、1時間眠ってました。

昼飯食って横になったら、また寝てた。

夕方3時頃に横になったてら、また寝てた。

結局、3〜4時間も昼寝してしまいました。

で夜はいつもどおり9時には床について、朝の5時まで眠りました。

パーフェクト・食っちゃ寝!

どんだけ寝るねん!

オッサンになってこんなに寝てダイジョウブか。

目とか脳とか腐ったりしないだろうなあ。

 

そうやってゴロゴロ、ウトウトを繰り返し、夜もしっかり眠りましたら、すいぶん元気になってました。

いろいろ。

そこで思ったんですよね。

ぼくはややこしく小難しく、神経が栄養が骨格が姿勢が、ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ言っていたけれども、単純に疲れてただけなんじゃないか。

そうじゃないと、あんなに眠れないだろう。

今でも正直、まだ眠いです。

 

疲れているくせに、眠気がない。

神経がコーフンしてるんですよね。

自分の症状と合致している人がどこかにいないか、自律神経を調整する画期的な方法はないか、そんな期待という名前の我欲をもって、ネットの世界をうろうろする。

運動不足だから運動しないといけない、セロトニンを出さないといけない、血行改善のために動かないといけない、そんなことばっかり考えて、ちょこまかちょこまか動いてる。

んなことしてたら、よけい神経がコーフンして、眠れなくなっちゃうんですよね。

いらんこと、すな。

バカの考え休みに似たり……どころか、休むほうがマシ。

いらんことせんと屁こいて寝てたほうが、100倍良かったかもしれない。

 

「おおきな限界」ばっかり見てたからなんです。

自分には目標があって、がんばらなくちゃいけない、辛抱しなくちゃいけない。

いままのままでは、その目標に到達できない。

だからじぶんの限界を、突破しなくちゃ。

それは正しいかもしれないけど「整理整頓」ができてないんですよね。

限界には、じつは、「ちいさな限界」と「おおきな限界」がある。

目標というのは殆どの場合「おおきな限界を超えること」なんですよね。

外出恐怖症を突破するとか、パニック障害を治すとかも「おおきな限界」だ。

でもそればっかりを見ていると「ちいさな限界」を見逃してしまうのです。

 

ちいさな限界は、毎時間ごと、日ごと、週ごと、月ごとにやってくる。

「おおきな限界」ばっかり目指していると、日々の「ちいさな限界」を無視するようになる。

がんばって、がんばって、辛抱して、辛抱して、考えて、考えて、試して、試して、進んで、進む。

で「ある日とつぜん」ドカーンと壊れる。

バチがあたったんだ。

「ちいさな限界」をケアせずに、「おおきな限界」ばっかり見ていたから。

 

まずは「ちいさな限界」を突破していかないといけないんですよね。

それはなんでもない、ちょっとした考え方のクセを治すことなのかもしれない。

ていねいに掃除をすることなのかもしれない。

25分おきに仕事を休むことかもしれない。

基本的なことで、できていないことを、まず突破する。

そうしないと、おおきな限界を突破することかんか、できるわけがないんですよね。

これは病気だけじゃなくて、スポーツでも仕事でも、なんでもそう。

 

おおきな限界しか見ていないから「わたしのちいさな限界」も見えてない。

だから、無理してしまう。

ていうかそもそも「自分が無理していることさえも、わからない」んだよなあ。

あたりまえだ。

ほんとうの自分がわからないと「ほんとうのわたしにもどる」ことはできません。

座標が不明だから。

同じように、目の前のちいさな限界が見えていないから「ない」と認識してる。

ないわけが、ないだろうが。

あるに決まってんだろうが。

あるのに、見えてない、だから、気づかない。

 

座標が、飛んでしまったんですよね。

「おおきな限界」に囚われすぎてしまって。

おおきな限界の座標は、そもそもわからないのです。

わからないから、突破することもむずかしい。

わからないところに自分の座標を定めてしまったから「いまの座標」も不明になってしまった。

じぶんの位置がわからないと、疲れているかどうかさえも、よくわからなくなってしまうんだなあ。

 

これを「無明」というのだと思います。

おおきな限界と、ちいさな限界が、整理できてない。

おおきな限界のことばかり考えることを「妄想」ともいう。

 

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