家の掃除は、神のため

あーあ。

とうとうコイツ、アタマおかしくなりやがった。

あーあ。

 

って思われるかもしれないけど、そんなオカルティックな、あるいはスピ的な話ではありません。

ただ、あることに気がついたのです。

掃除を毎日するようになって、3ヶ月。

ずいぶん家はキレイになってきましたが、おかしなことが起きていました。

家はキレイになったが、ココロはかえって汚れていく

 

拒否の感情が、強くなっているのです。

掃除をそんなに頻繁にしていなかったころ、ぼくはホコリや汚れに対してわりと寛容でした。

綿埃が部屋の隅にあっても、とくになんとも思わなかった。

怠惰ではあったかもしれないが、寛容ではあったし、汚れに対する拒否感もなかった。

イヌが玄関でブルブル!っと身震いしても、なんとも思いませんでした。

でも現在では、イヌが玄関に上がることさえも不快に感じている。

むしろ掃除を習慣にしていなかった頃のほうが、かえって心は寛大で、澄んでいたのです。

 

フローリングの板と板の隙間に溜まったホコリを爪楊枝でほじくり出しているときに、忽然と気づいた。

 

こんなことをしていたら、病むぞ。

 

神経質すぎるのです。

どうしてここまで「行ってしまったか」ということを考えた。

するとぼくの心に、「恐怖」と「怨嗟」の感情が生まれていたのでした。

汚れが、コワイ。

カビが、コワイ。

ホコリが、にくい。

バイキンが、にくい。

 

 

STOP!

待てぇえええい!

そこまでッ!

 

 

こうなってしまったら、もう正常ではない。

部屋はキレイになったかもしれないが、心のほうが逆に、ケガれてしまったのだ!

 

そこでやっと、わかったのです。

どうして禅が、掃除を推奨しているのか、ということが。

 

掃除をすることで生まれる「こころの動き」に気づかせるためだったのではないか。

清潔な方がいい、それはもちろん、そうです。

でも「清潔に執着する」と、清潔ではないことが苦しみになってしまいます。

これはまったく、本質的ではありません。

禅が、あるいは仏教が、信者を神経症にしようだなどと考えるでしょうか。

そんなわけはない。

厳格に掃除をさせることで、清潔への執着すらも新たな苦しみを生むということを、身をもって気づかせるためだったのではないか。

 

世の中には、強迫神経症という病気があるそうです。

掃除をしはじめたら、もう止まらなくなる。

掃除をしないと不安で眠れなくなったりして、とうとう家族にさえも完璧な掃除を強要するようになるそうです。

これはもう、どう考えても正常とはいえません。

なによりかわいそうなのが、本来は快適で安楽な環境の構築のために行うはずの掃除によって、当の本人が苦しんでしまっていること。

この状況も、結局は「恐怖」が裏にあるのです。

掃除をしないという行動が、自分自身に何らかの害をなすのではないか、という不安を持つ。

 

掃除も、それが不安や恐怖を原動力としはじめたり、掃除の結果を阻害されることに怒りを感じ始めるようになってしまったら、それはもう「害悪」以外のなにものでもありません。

部屋がキレイになっても、心がケガれてしまったのでは、どうにもならない。

そんなことなら、まだ逆のほうがマシだ。

どうして、こういうことになってしまうのか。

それはもう、ものすごく単純な一点に集約されるのでした。

 

じぶんや、じぶんの家族のために掃除をするからである。

 

利己の精神で掃除をするから、そのメリットに執着してしまう。

じぶんのために掃除をするから、それを汚されると腹が立つ。

じぶんのために掃除をするから、汚れやバイキンに対して恐怖が生まれる。

じぶんのために掃除をするから、掃除をしないと不安になる。

 

とはいえ掃除の行き届いた環境が神経にやすらぎを与えることは確かです。

ぼくの家族も、掃除をしたあとには必ず気がつきます。

「なんか、空気がキレイなような……」

これは全員、そう感じるようです。

親父は正義感が強く、テレビの犯罪ニュースなどに悪態をつくことがありましたが、きれいな環境になるとまったく悪態をつかなくなりました。

ぼくも、掃除をきちんとするようになってから、異様にイライラすることが減りました。

家の掃除をきちんとしていると、こころに異変が起こることはまちがいないのです。

しかしそのことに「執着」してしまうと、強迫神経症のようになっていく可能性もある。

「掃除をしないことが苦しい」などという、新たな苦しみを生む可能性がある。

まさに「痛し痒し」というところです。

 

そこで、よい案を思いついたのです。

家の掃除というのは、どうしたって自分や、自分に近い家族のためになります。

「利己」というところから、どうしても離れられない。

だから、家族や自分ではない、だれかのために、を目的とすれば良いのではないか。

それがたとえば「神」でいいのではないか、と思ったのです。

「ほとけさま」でもいいかもしれません。

 

じぶんが掃除をしているのは、私の健康や、私の家族の健康のためではない。

ただ神様を、喜ばせるためである。

……ぐらいに思っとけばいいのではないか、なんて。

 

掃除したぐらいで、神様は守ったり助けてくれたりはしません。

また逆に、掃除をしていないからといって、バチを与えたりもしません。

そんな差別主義者なわけがねーだろうが。

接待をしたら見返りをくれるだなんて、それ汚職だからな。

神様なんだぞ。人間よりも高等なんだぞ。

もしそんなことをするのなら、それは神様じゃなくて、人間よりもきたない、ただの悪霊です。

掃除しようがしまいが、神様は、なにもしません。

だからこそ、神様のために、掃除するのです。

功徳がないからこそ、ただ、ただ、行う。

この行動原理に「狂気」が入り込む余地はない。

 

強すぎる目的志向性は、狂気を生むんですよね。

ふつうに考えて、2~3日掃除をしなくても、あるいは3ヶ月ぐらい掃除をしなくたって、べつに病気したり死んだりするわけはないです。

そんなやつ、いーっぱいおるわ。

なのに毎日掃除をしないと不安になったり、苦痛を感じたりするのなら、それそのものが病気だ、ということです。

なにしとんねん。

順番がムチャクチャやないか。

 

掃除が良いことである、それはまちがいないです。

だからこそ、そこに利己的な目標があってはならない。

良いことに、利己を足したとき、「執着」と「狂気」が生まれる。

 

 

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