坐禅を続けるようになって、明らかに変わったことがあります。
スピリチュアル的なことへの関心が、どんどん薄くなっている。
以前はけっこう、関心があったのです。
ひとつには、通っていたヨガ教室に「そういう人」がたくさんいたこと。
エネルギーとか波動とか、そういうことをよく聞かされていました。
またそもそもぼくは子どものころから神社仏閣や教会が好きで、宗教的なことにはわりと強めの関心を持っていました。
好きか嫌いかでいくと、好きなほうです。
しかしいっぽうで、不可思議なことに対しては「そんなわけはない」という現実的な視点もありました。
坐禅を続けていくうちに、どんどんスピ的な物事への関心が消えていっているのです。
掃除も毎日していますし、坐禅はもうすぐ100日になろうとしています。
しかしたとえば「掃除をすれば運が良くなる」とか「部屋のエネルギー波動が上昇して・・・」「瞑想によってチャクラが、クンダリーニーエネルギーが」などということは、もう一切考えないのです。
考え方がどんどん合理的・現実的なほうに向かいつつある。
禅というのはそもそも、いわゆるオカルト的なものごと、スピリチュアル的なものごとに対しては「中立」の立場なのだそうです。
肯定はしないが、かといって否定もしない。
「わからないものは、そのままでよい」という姿勢のようなのですね。
おそらくぼくがこんなに坐禅が続いたはこの志向性に性格が合致していたからだと思います。
ハッキリ言って、スピ的なナニガシというのには現実的なチカラはないのです。
運が良くなったとか悪くなったとかいうけど、それは本人がそう思っているだけということのほうが圧倒的に多い。
どちらにでも解釈できることを、あたかも効果があったように解釈することが非常に多いのです。
そこには悪意があるということではなく、どちらかというと「希望」に裏打ちされている。
そうなってほしいから、そうなったと思い込みたい、という感じですね。
神秘的なエネルギーや波動的なものを利用するメソッドというのには、実質的にはなにひとつとして効果がないのです。
効果を云々するのではれば、信じている・信じていないという心理的な条件がなくても継続すれば効果は確実に発動すべきです。
結局信じていないと効果がないというのでは、それは「汎用性が低い」ということにほかなりません。
つまりは、役に立たない、ちからがない。
だからこそ実際に、スピ的なことはメジャーにならないのだと思います。
一見スピリチュアルに見える坐禅ですが、これを続けていくとむしろ思考が現実的になっていくのを感じます。
「自分自身を客観的に観察する」「思考を暴れさせない」という訓練だからかもしれません。
スピリチュアルに傾注しているときは、つまりは要するに「願望が強くなってる」のですよね。
こころが、あばれている。
ああなりたい、こうなりたい、ああしたい、こうしたいという気持ちに振り回されて、せっかちになり、思考が混乱しているようなのです。
まるでドラえもんの不思議道具を求めるかのように、神秘の世界に解決策を求めるようになっていく。
いま私が生きているのは、現実の世界である。
そしてこの現実の世界で通用する剣は、現実の剣だけである。
妄想や想像の剣では、なにひとつとして破砕することはできない。
したがってもし努力をするのであれば、現実的な努力しか効力はあり得ないのである。
……ということを、べつに誰に言われたとかでなく、自然に思うようになるのですね。
よって、スピ的なことにはあまり関心を寄せなくなっていく。
石ころに、ちからがあるわけがないのです。
よしんば資産価値や芸術的価値はあったとしても、効能はない。
この当然至極のことに思い至るためには、こころの炎症をある程度収めておく必要があるようです。
とはいえ、オカルトやスピリチュアルについてはぼくも「否定」はしないでおこうと思います。
いまはわからないだけで、あとでわかることだって、あるかもしれません。
それにそういったことで一時的とはいえ、こころが救われた人がいるのも事実です。
肯定するには値しないが、否定するほどのことでもない。
論理学的にも、「ある」ことは証明できても「ない」ことは証明できないのだそうです。
白いカラスはいる、という命題は、たった一匹の白いカラスを連れてくれば、証明できる。
でも「いない」ことを証明するには、世界中のカラスを集めてこないとできません。
だから、オカルトやスピリチュアルが「ある」と主張していることを「ない」と言い切ることは、たぶんだれにもできないのですね。
だから、否定しなくていい。
そして、肯定もしなくていい。
そんなくだらない脳内議論をしているヒマがあるのなら、明日の仕事の役に立つ勉強でもしておいたほうが、よほど有意義です。