わかってあげて

パニック障害真っ盛りのころ、ぼくは「わかってほしい」と思っていました。

この病気がいかに辛いものか、外出したくてもできない苦しみがいかほどのものか、原因が悪意や怠惰などではなく、純粋に動けないということなど、それを「わかってほしい」と思ってた。

わかってほしい。

そう思うのは、当然で、説明ができない、難しいからこそ、わかってほしいと願う。

 

でも、ふと、思うのです。

ぼくは「わかってほしい」と願う。

ではぼくは、人のことを「わかってあげる」ことを、していただろうか、と。

 

無神経なひとほど自分を神経質だと考え、残忍なひとほど自分をやさしすぎると考える。

酔っ払いは自分を酔っていないと主張し、狂人は自分を正常だと主張する。

「わかってほしい」という人ほど、「人のことをわかろうとしていない」ということは、ないだろうか。

人のちょっとした言動に感情が逆撫でされてしまう。

そういう現象の多くは「わたしをわかってほしい」という気持ちのほうが強くて、「相手をわかろうとする」気持ちが弱いときに発生します。

 

わかってあげて。

わたしのことではなく、相手のことを、わかってあげて。

 

「わかってあげる」ことをすると、忽然とイライラが消えるのですね。

たとえば仕事でも、要点のよくわからないメールがきて、イラっとすることがあります。

そんなとき、「なぜこの人は、要点のよくわからないメールを送ってきたのだろうか」と考えてみる。

そうすると、いくつもの可能性に思い当たります。

・ほんとうは文章を書くのが苦手なのに、電話をすると手間をとらせてしまうので、いっしょうけんめい頑張って書こうとしている。
・ほんとうはとても疲れているのに、できるだけ早く知らせたほうがいいと思って、がんばって書いている。
・じぶんでもよく理解ができていなくて、相談したいと思っている。
・丁寧に書こうと思ったことが災いして冗長になり、要点が混濁してしまった。
・これぐらいの感じでもわかってくれるだろうと、わたしに期待をしている。

 

「いいように考える」とかはなく、ほんとうに冷静に考えてみると、多くの場合そこに「悪意」はないのです。意地悪をしているのではない。

もし相手が手抜きをしている、相手が甘えているということに腹が立つとしたら、それは「わたしが相手の都合を理解することに手を抜いている」ともいえるし、「わたしこそがすぐ理解できるメールを書いてほしいと甘えている」ともいえます。

つまり、お互い様である。

そこに明確な敵意や悪意がないかぎり、イラっとするのは「わかってあげていない」ことが多いのですね。

 

不具合の現象を「わたしの神経が・・・」とか「わたしのストレスが・・・」などという、一見医学・科学っぽい観点で考えるまえに、「わたしはいま、なにを考えているのだろうか」ということも、すこし観察してみる。

すると結局は、「わたしのことを、わかってほしい」という、内向きのベクトルに操作されているだけだったりしますね。

 

ぼくは新興宗教にハマっていたり、占いなどに凝っているひとを軽蔑しているところがありました。

そういうことをする人は、こころや、あたまが弱いからである、というふうに。

しかしこれも「わかってあげる」としたら、どうだろう。

人というのは、ずっと順風満帆というわけではなく、失速することもあります。

そんなとき、強い不安や恐怖を抱くことがあり、また、救ってくれる人に恵まれないこともある。

そういうとき、「わらをもつかむ」思いで、何かに頼りたいのかもしれないのです。

その人は、こころのなかに強い不安を抱えているのかもしれない。

そういう人を「ばかである」という一言で片付けるのは、道徳的な意味での良し悪しではなく、その刃先はいずれ「自分に向かう」のではないのか。

じぶんに理解のできない行動をする人のことを「わかってあげられない」ということは、ひとからも「わかってもらえなくて」当然ではないのか。

じぶんのことはわかってほしい、でもわたしは、人のことをわかってあげようとは思わない。

これ、どこかおかしくはないだろうか。

 

ひとのことをわかってあげられない人は、じぶんのこともわかってあげられていない。

じぶんのことをわかってあげられないから、ひとのことも、わかってあげられない。

 

同じ能力だからです。

じぶんも、ひとも、同じ人間だからです。

 

まずは「じぶんをわかってあげる」必要があるのではないか。

じぶんのことを、他人事のように見て、わかってあげる必要があるのではないか。

 

ぼくは、ぼくにイライラしています。

パニック障害や自律神経失調症で、思うように動けないからです。

でもこの事実を、「わかってあげる」としたら、どうだろう。

 

結婚し、子どもがうまれたときに、ぼくはパニック障害を発症しました。

他人事と考えれば、それはかなり不安だったのではないか、と思う。

娘も生まれたことだ、今からがんばって、家族を養っていかなくてはいけない!

そう決心していた矢先に、聞いたこともない病名を告げられる。

こわい。不安である。

ずっとこころのなかに、また壊れるのではないか、そんな不安がつきまとう。

思い切った行動ができない。

家族にも迷惑をかけてしまう、どうしようか、と悩む。

 

かわいそうである。

原因はきっとどこかにあって、過剰な責任感がそれなのかもしれません。

あるいは全然別件で、ふつうに仕事でストレスを抱えていたのかもしれません。

神経が過敏で繊細すぎるのかもしれません。

しかしそのような「原因」、つまり「なにゆえに」というのはすべて、過去のことである。

いま、ここにあるのは、「かわいそうである」。

悪意はなく、意図したことでもなく、犯罪も犯してはいない。

 

どうすれば、治るのか。

そういう「未来」に意識が飛びすぎて、「わたしは、わたしを見ていなかった」。

 

苦しみを抱えているのは、ぼくだけではありません。

ひとぞれぞれ、何らかのトラブルは抱えているものです。

「わたしのトラブルは許せないが、ひとのトラブルには関心がない」

疲れれば、疲れるほどに、そうなっていく。

「治すことに疲れて」、どんどん内向きになっていく。

 

だれでもみんな悩んでて、こころのどこかに、不安はある。

まいにち、なにかで、困ってる。

そんな「ひと」に対してイラっとするのは「見ていない」からですね。

じぶんのことしか見ていない、のではないのです。

じぶんのことさえも、見ていない。

 

じぶんをしっかり見る練習をすれば、ひとのことも、しっかり見えてくるのだろうと思います。

わたしは、ひとの、ヒナ形である。

わたしは、ひとの、ヒントである。

ひとのことが「見えて」きたら、もうイライラしないと思うのです。

ひとにはそれぞれ、事情がある。

その事情を汲み取れないのは、とりもなおさず、「わかってあげようとしていない」からですね。

 

苦しみには、功徳がある。

「わかってあげる」ちからが身につく。

早々に解決したり、逃げてしまったら、もう功徳はないのですよね。

 

わかってあげて。

じぶんのことも、ひとのことも、わかってあげて。

本を読んでも、勉強しても、お金を積んでも、それはできない。

苦しんだひとだけが、それをできるようになる。

 

 

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