気がつくと坐禅も、もう104日めになっていました。
坐禅をするようになって気づいたことで最も明確だったのは、自分の姿勢がかなり悪かった、ということです。
ふと気を抜くと、みぞおちのあたりで胴体が前に折れて肩が前に巻き込み、背中全体が丸くなり、顔面を前に突き出すような姿勢になってしまう。
「背中は少し丸いほうがいい」という説もあります。
人体の背骨はS字カーブを描いているので、背中はすこし丸くなっているぐらいで良いのだ、という話。
肩を前に出し、背中を丸めた姿勢のほうが呼吸が深くなり、人体にとって自然なのだ、というのです。
確かに脱力すれば背中は丸くなりやすく、リラックスということを考えればこの説も「なるほど」とは思う節もあり、一時期ぼくもこれを信じたことがありました。
しかし実際に坐禅でまっすぐな姿勢を毎日短時間(20分弱)でも続けていくうちに、「背中は少し丸いほうがいい説」というのは、これは明らかに「間違っている」ということがわかってきました。
肩を前に出し、背中を丸めたほうがラクで呼吸がしやすいと「感じる」のは、そういう姿勢を長年続けているからにほかならないのでした。
胴体のいろいろな筋肉が背中をまるめた状態で固着してしまっているので、姿勢をまっすぐにすると息が吸えなくなっているのです。
とくに横隔膜の可動域が小さくなってしまって、背中を丸めるというか、おなかを抱え込む姿勢にしないと横隔膜が動かないのです。
この感覚を「自然」と思い込むことによって、いずれ「背中は丸いほうがいい」という誤った認識に至るのだと思います。
実際に「まっすぐな姿勢」を続けてみるとわかるのですが、アゴを引き、肩を後ろに引き、背中とアタマ、腰が一直線になるようにしたほうが、断然呼吸は深くなります。
最初の頃はぎゃくに苦しいのですが、徐々に横隔膜が伸びてきて、またおそらく横隔膜と連動している胸や首の前側の筋肉も伸びてきます。
すると横隔膜がぐっと深く下がるようになるので、吸える空気の量が格段に増える。
また姿勢がまっすぐな状態で横隔膜を大きく下げても、それほど大きくおなかは前に出ないのです。
背中を丸めた状態で横隔膜を下げると、妊婦さんのように大きくおなかが前に出る。
この「見た目」にごまかされて、背中が丸いほうが大きな腹式呼吸ができているような「錯覚」に陥るようです。
考えてみればオペラの歌手さんなんかは、とにかく姿勢を厳しく矯正されますが、これも「人体という楽器」を最大限行使するためなんだそうです。
猫背で背中をまるめたオペラ歌手なんか、いません。
澄み渡り響き通る大音声を発揮するためには、強大な横隔膜と旺盛な肺活量がなくてはなしえません。
このことからも、もっとも効率的な呼吸には「良い姿勢」が必須条件なのだと思います。
デスクワークなどを継続していると、背中が丸いほうがラクに感じるようになります。
これはつまり、
「ニュートラル」を喪失している
ということなんだと思います。
禅というか仏教では「中道」ということを重視します。
中道、というのは、おそらく「ニュートラル」ということなのではないか、と思うのです。
どちらかに偏るのではなく、中間点にできるだけ居るようにする、あるいは「中間点の座標」を常に意識しておく、というような。
もしかすると坐禅というのは姿勢を厳しく矯正することによって「肉体的なニュートラル・ポジション」を再認識させようとしているのではないでしょうか。
心身一如ともいいますし、肉体のニュートラル・ポジションが獲得できれば、精神的なニュートラル・ポジションも得やすいのかもしれません。
そういえば「猫背の仏像」なんて、ありませんね。
仏像は、いわば人体の理想形を描いているものですから、ほんとうに少し猫背気味のほうが良いのなら仏像も全部そうなっていたはずです。
普段よく感じるぼくの自律神経失調症のような各種症状は、どうも身体的なニュートラル・ポジションを喪失しているときに起こるようなのです。
みぞおちあたりが萎縮して腹筋に強い緊張があり、横隔膜の動きが抑制されている。
結果呼吸が非常に浅くなり、息苦しさがつねにつきまとう。
ちょっとしたことにも過剰に驚いたり、不安を感じたりもしてしまう。
身体がニュートラル・ポジションを喪失すると、精神的にも過敏や小心といった現象が起こるような気がしています。
考えてみれば、どのような精神疾患であれ、それは「ニュートラルの喪失」といえます。
とにかく「過剰」になっている。
病的な潔癖は清潔意識の過剰といえますし、パニック障害はわるい予測や妄想が過剰であるといえるし、ウツなどは後ろ向きな志向性が過剰とも言えます。
精神がニュートラル・ポジションを喪失したとき、狂気というのが発動するのかもしれません。
ちなみに仏教では、この世の人間のほとんどは精神疾患を患っている、と定義しているそうです。
多寡はあれども人はみなどちらかの方向へ偏っており、中道すなわちニュートラル・ポジションを喪失してしまっている。
この偏りをただし、ニュートラルな状態に回帰することを「仏道」としている、というような。
武道でも「自然体」といって、やや重心を落とし、自然に姿勢を正して肩幅に足を開いて立ち、とくにどこにも力を入れていない状態を大変重視します。
視線も「八方眼」といって、相手を凝視するのではなく、ぼんやりと全体を広く見ておくことが推奨されています。
これらもいわばニュートラル・ポジションといえますね。
自然体はどちらの方向にも重心が偏っておらず、筋肉の緊張も偏っていないため、咄嗟の動きに柔軟に対応ができる。
八方眼はどこかを凝視していないからこそ、予想外の場所からの攻撃にも気がつくことができる。
精神も同じだと思うのですよね。
ある方向に集中し、偏っているせいで咄嗟のトラブルに対応できないばかりか、進みたい方向にさえ進めなくなることがある。
片方ばかり見ているせいで、もう片方がまったく見えなくなってしまう。
思い込み、没頭し、偏差し、視野が狭窄することで、生活や思考、心身にも悪影響が出ることがある。
こころや思考をニュートラルにするためには、まず身体をニュートラルにする必要があるのかもしれません。
長年続けてきた姿勢は、本人の思考にも影響するのかもしれないです。
前のめり、肩の巻き込み、腹部の圧迫、アゴの突出。
そうなるとあきらかに呼吸が浅くなって酸素をうまく使うことができず、毒素もうまく排気できません。
このことが精神に「影響しない」と考えるほうが、よほど非科学的かもしれません。
健全な精神が健全な肉体に宿るように、ニュートラルな精神はニュートラルな姿勢によって発動するのかもしれませんね。
そして自分が思っているニュートラルは、ほんとうはまったくニュートラルではないことのほうが多い。
とくに精神的なニュートラルが、いちばんむずかしい。
だから2000年以上、お坊さんたちはいっしょうけんめいに修行しているのかもしれませんね。