パニック障害や神経症になるようなヒトは真面目な人が多い、ということを聞いたことがあって、そうかじゃあ真面目をやめればいいんだな、なんて考えたことがあります。
でもこれは決定的に間違っていることが3つあって、まず第一に、性格なんてそうそう変わらない。
生まれ持ってきたものもあるようで、トレーニングしたからといって変えられるものばかりではないようです。
あともうひとつは、自分はそれほど、真面目じゃない。
ぜんぜん、ちゃんとしていないのですよ。
正確には「妙に真面目なところもある」というだけの話で、全体的に、あるいは完璧に真面目というわけでもない。
客観的に自分をながめてみたら、むしろ不真面目なところのほうが多いことに気がついちゃったりします。
さいごに、真面目はわるいことではないのですね。
とても良いことなのです。
仕事にせよ、遊びにせよ、真面目にやるからこそ、たのしい。
不真面目に、だらだらと、いい加減にやっているようでは、なんにも楽しくなくなってしまう。
そのうえ、ヒトに迷惑をかけたりなんかして、不真面目には良いことはとくにないのでした。
そこでようやく、気がついたのです。
「パニック障害や神経症になるようなヒトは真面目な人が多い」という定義こそが間違っていたのだ、ということに。
そりゃそうだ。
世の中にはまじめなひとはたくさんいます。数え切れないぐらいいます。
でもそんなひとたちが全員パニック障害だったり神経症だったりするかというと、そんなことないです。
とっても真面目だけど、精神的・神経的には全然問題ないひとのほうが、むしろ多いかもしれません。
真面目、ということの「定義」を誤っていたのかもしれないです。
真面目というのを責任感が強いとか、時間を守るとか、ルールに固執するとか、勤勉であるとか、丁寧であるとか、頭が堅いとか、理屈っぽいとか、リスクをよく考えるとかいうことと混同してしまっていたのではないか。
まず、真面目には二種類あるのですよね。
・傲慢な真面目
・謙虚な真面目
傲慢な真面目というのは、厄介なのです。
よく怒るから。
「じぶんは正しいことをしているのだから、責められる筋合いはない」などという、ちょっとアタマおかしい系のことを考えがちなのです。
正しいことをする → 正しい結果が出る、という、妙な幻想のなかで生きている。
こういうひとが、神様を呪ったりするのかもしれません。
ちゃんとしてきたのに!
良いといわれることを、してきたのに!
わるいことはしていないのに!
なぜ私が、不幸になるのだ!
どうして私が、病気になるのだ!
神様も仏様も、いないんだ!
バッキャロー!
みたいな。
いや、そうかもしれないけど、でもいいことをしようが、わるいことをしようが、事故に合うときは合いますね。
病気だってする。
ちゃんとしていれば必ず望むとおりの結果が出るだなんて、そんなわけは絶対にないです。
トラブルは良いひとにも、わるいひとにも降りかかるから、トラブルといわれる。
わるいひとだけに降りかかるのなら、それは災厄ではなくて「罰」ですものね。
ただ、あまりにもむちゃくちゃなことをしていればトラブルに合う確率は高くなるから、そういうばあいは「自業自得」ともいわれる。
ちゃんとしていれば、あるいは真面目にしいていれば「トラブルの確率が減る」ということは、確かにあるのでしょう。
でも「トラブルがなくなる」わけではない。
確率が減ることを、ゼロになるというふうに、勝手に再定義してしまう。
だから「傲慢」なのだと思います。
傲慢な真面目さんは、自分は間違っていないと信じているから、予想外のトラブルがあると、怒る。
正しいことをしていれば、私の望む結末になるはずなのに、ならないのはおかしい!
みたいな。
これも、また勝手な解釈が入っているんですよね。
「正しいことをすれば、正しい結果が出る」
という当然のことを、
「正しいことをすれば、私の望む結果が出る」
というふうに、脳内変換してる。
正しいこと = 私の望むこと、っていう、全然違うものを連合弛緩的に等価にしてしまっている。
なんじゃそら。
それこそ神様仏様じゃあるまいし、この世の全ての可能性を予測できるわけがないんですけどね。
自分自身が有限であるかぎり、予想外なことは絶対に起こる。
おまえむかしの教皇か、っていう感じなんですよね。
教皇不可謬説みたいに、正しいヒトは間違えないのだから、正しいことをしているわたしは間違っていないのである、みたいな。
傲慢だわなあ。
だから、神経症とかになるんじゃないか。
「責められている」気がするんですよね。
自分では正しいことをしていると思うのに、なんかうまいこといかない。
予想外である。
なんだ!
なにがわるいんだ!
チキショー!!
みたいな怒りが出てきて、焦って、おかしくなってくような。
パニックって「予想外だから」なるんですよね。
予想の範囲内のことなら、焦ることなんてないのです。
予想外なことが急に起こるから、パニックに陥る。
わりと有能なひとにパニック障害が多いというのも、有能であるがゆえに、なんでも予測できると勘違いしてしまっている可能性もありますね。
というよりも、毎日予想の範囲内で行動をしてるのかもしれない。
だから予想外に慣れていなくて、きゅうに出た時に焦ってしまい、パニック状態に陥りやすいのかもしれません。
無能なヒトはじぶんが無能であることを知っているので、トラブルが起こったとしても「ああ、またか」てなもんで、だからあまり焦らないのかもしれませんね。
そういえば焦る、っていうのも、似ていますね。
トラブルに慣れているヒトは、だんだん焦らなくなるものです。
慣れていないヒトこそが、盛大に焦る。
ではこの「慣れる」とは、どういうことなのか。
ひとことでいうと、
そんなもんである
っていうことを、ハラの底でしっかり理解することだと思うんですよね。
トラブルはある程度予防はできるけど、完璧に消すことはできない。
トラブルは、いくらきちんとしていても、起こるときには起きる。
トラブルは消すものではなく、減らすものである。
ていうか、トラブルは「必ず起こる」ものである。
だからトラブルを消す努力をするよりも、むしろトラブルが起こったときの対処法を整理しておくほうが有意義である。
トラブルを数限りなく繰り返していくうちに、これに気がつくことを「慣れる」というのだと思います。
これを別の言葉でいえば「謙虚になる」ともいえる。
根本的な部分の「そんなもんである」を、どうしても一切理解ができないのであれば、たぶん一生「慣れる」ことはないんだと思います。
メンタルの不調が真面目であるかどうかなんて、たぶんあまり関係がなかったのだと思います。
そうではなく「傲慢か謙虚か」っていうことが最大のポイントだったのではないか。
傲慢なヒトに限って、じぶんは謙虚である、と考えがちなんですよね。
そして真面目なひとほど、じぶんは謙虚である、とも考える。
真面目な人ほど、じぶんは正しく、ひとは間違っていると考える。
真面目な人ほど、腹黒い。
傲慢な真面目さんは「出られないループ」にハマっちゃってる。
だからおなじところを、ぐるぐるぐるぐるハムスターみたいに回って、苦労するのかもしれません。
謙虚になれば、箱の外に出られるのかもしれないのですが。
ようするにこれは、ぼく自身のことです。