坐禅という贅沢

坐禅をはじめてから113日め。

まさかこんなに続くとは思っていませんでしたが、おそらく続いたのは「続けようとは思わなかった」というのが、いちばん大きいような気がします。

どうせ寝る前は何をするというわけでもなく、とくにこれといった趣味もないのだから、1日にたかだか20分ぐらいはそういう時間があっても全然まったく損じゃあないよな、そんな甘ったるい根性で始めたのでした。

自律神経失調症とかパニック障害を治したいとか、そんなこともべつに考えていなかった。

 

さすがに100日を超えてくるともはや歯磨きと同等の「習慣」みたいになってきて、さて、やろうか、みたいな決意も必要なくなってきました。

これがいいことなのかどうなのか、ぼくにはさっぱりわかりません。

わからないけど、「20分間姿勢を正して座ってとくになにもしていない」ということが決定的に何かに悪いということはないでしょうし、また決定的に何かに良いということもないと思う。

空白の20分、そんなのがあって、それがどうしたというのか。

 

ただ最近この坐禅タイムというのはもしかすると「天下の大贅沢」なのではないか、とも思うようになりました。

絶景を見渡せる高原のカフェのポーチでおいしい空気を吸いながら高級ダージリンティーを嗜む、というのももちろんすばらしい贅沢だし、ウユニ塩湖で満天の星空を見上げるのも贅沢だけど、もしかするとこの坐禅タイムのほうが、それを余裕で上回る贅沢なのではないか。

音なし。景色なし。声なし。文字なし。色気なし。なにもなし。

目の前にあるのは、白い壁だけ。

それさえも、見ているとはいえず、見ていないともいえない。

そんな20分。

 

坐禅をしていると、ときどき「まったくの安心状態」というのが出ることがあります。

ほんとうになんの不安も心配もなくなってしまって、えもいえぬ心地よさを感じることがある。

でもこれは毎回出るわけではなくて、たとえば今日は出ませんでした。

今日はかなり体調も機嫌もよくわりと集中力もある日なんだけれど、なんかこう、あたまのなかがわっさわっさして、イマイチでした。

そんな日もある。

でも寝不足で風邪引いてむちゃくちゃ体調がわるく、息苦しく、耳鳴りがして、パニック発作の予兆さえあるという日なのに、なぜだか「出る」こともある。

そんな日もある。

頑張れば出るというものでもなく、法則をつかめば出るというものでもなく、なんらかのコツがあるというわけでもなさそうです。

星が出るのを待つように、これも「出るのを待つ」しかない。

でも待ったからといって、かならず出るものでもない。

ということは、出ようが出まいがそんなことはどっちでも良い、ということです。

 

ただしずかに座ってなにもしないでいられる「時と場所」が、ぼくにはある。

そんな時間を過ごすことを、許されている。

高原のカフェも確かにすばらしいけど、それは「ぼくの場所」ではないのです。

それにいくら景色がきれいでも、お茶がおいしくても、それはぼくの「外にあるもの」。

なにひとつ所有していないし、すべては借り物のようなものである。

でも坐禅による「静けさ」は、まちがいなく「ぼく専用」です。

だれも介入できない、だれにも貸し出しさえできない、ぼくにしか体験ができない。

 

なにもしないひととき。

これをほんの数分でも持てるということは、もしかするとこの世で最大の贅沢なのかもしれないですね。

そしてこの贅沢には、特別な舞台装置も、お金も、手間も、技術も、知識も、なんにもいらない。

とくになにもいらないかわりに、とくになにもしなくて良い。

ああ、これはまったく、贅沢ですなあ。

あれをせねば、これをせねば。

あちらに行かねば、こちらに行かねば。

ああならねば、こうならねば。

そういうことも、もう「なくていい」のです。

静けさこそが、正真正銘の贅沢。

 

 

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