ねばつく心

芸能人にパニック障害の人が異常に多い件については、諸説あります。

なかでも最も説得力があるのは「ストレス仮説」です。

芸能人というのはまさに実力社会ですし、また人気商売でもあります。

とても不安定なうえに、有名なだけに人からのバッシングも受けやすいでしょうし、身に覚えのない責任を追求される機会も多いかもしれません。

またやっている仕事は「替えが効かない」から、病欠や遅刻、ミスなどが想定外の損害を与える可能性もあります。

確かにものすごいストレスフルな商売ではあるので、ストレス仮説は説得力が半端ないです。

 

しかし一般人にもパニック障害や神経症のひとはたくさんいるわけで、そのひとたちが全員芸能人ばりのストレスを抱えているかというと、そんなこともないと思うのであります。

まあ「ストレスに弱い」と言ってしまえばそうなのかもしれませんが、ただぼくの身の回りにいるパニック障害の人がストレス耐性が低いかというと、案外そうでもないです。

むしろ、いわゆるほんとうに一般的な人に比べれば、ストレス耐性が強い感じさえあるのですよね。

我慢強いだけじゃなく、ストレス解消だってそこそこ上手に見えます。

おかしいなあ。

 

ストレスが発作のトリガーになっている、というのはあるのかもしれません。

でも根本的な原因は、そこではないのではないか。

もしかしたら「粘着気質」のせいなのではないか、と思ったりしたのです。

 

目標達成やトラブル対処などについて、ものすごい粘着する傾向があるような気がするのですよね。

なかなか、あきらめないのです。

これはボク自身についても言えることで、むろん全てのことに対してそういうわけではないのですが、たとえば仕事とか責任遂行ということについてはものすごく執着します。

パニック発作が起きた時の、あのえもいえぬ恐怖感は「死ぬことを全力で拒否している」のですね。

つまり生きるということについて、尋常ならざる粘着がある。

 

いっぽうスポーツなどの勝敗については、ほとんどぜんぜん執着しません。

だって負けたってべつに死なないし、そもそも遊びみたいなものなんだから、そんなに形相を変えてまで勝ち負けにこだわるなんてバカじゃなかろうか、というのが正直あります。

むろん負けたらそれなりに悔しいし、勝ったらそれなりにはうれしいです。

でもいつまでも引きずるということはないです。

これに勝って、結局なにがどないなるねんというのがあって、だからぼくはあんまりスポーツには向いていません。

しかしそのおかげで、ぼくはスポーツをけっこう楽しむことができるし、スポーツに関して「悩む」ということがありません。からだを動かすことじたいは、嫌いではないのです。

負けても知るかアホンダラが、ていう感じで勝ちに対して粘着しなければ、無理もしないし、負けて泣いたり悔しがったりもしなくて済むのですね。

だからある意味では、ぼくはスポーツに向いているのかもしれません。

 

さておき、だから芸能人にはパニック障害が多いのでは、と思ったのです。

粘着気質の人が多いのではないか。

だってあんなに厳しい世界でのし上がっていこうと思ったら、「負けても知るかアホンダラ」「売れんかっても死なへん死なへん」みたいなことを考えているようでは、ハナから無理だと思うのですよね。

そもそも芸能界で生きていけないのではないか。

粘着性のないひとは、芸能人には向いていないともいえます。

 

だからストレスじたいが原因というよりも、そのひとの「気質」のほうに根本的な原因があるのかもな、と思うのです。

パニック発作を起こしている時、じぶんの中でどのような反応が起きているかを観察すると、ようするに「生への粘着」以外のなにものでもないのです。

 

ああ、これでぼくはとうとう死ぬのか・・・・・・そうか、やっと楽になれるのだなあ。

もしそんなふうに思っていたら、発作なんか起こるわけがないのです。

「絶対に死ねない! いやだ! なにがどうあっても、なにをどうしても、絶対に生きるのだ!」

みたいな「生への粘着」があるからこそ、こころが暴れまわる。

 

「あきらめがわるい」

っていうのが、あるのかもしれないな、と思ったりするのであります。

あきらめというのは、もともとの意味でいうと「明らかにする」ということなんだそうです。

仏教用語の「諦」ももとはサンスクリット語の「サッチャ」つまり「真理」という意味で「ただしい見識」程度のことを言うのだそうです。

だから諦め=断念、ということではない、そういうふうに解説する人もいます。

 

しかしやっぱり「諦め=断念」なのです。

ものごとの道理をしっかり見て、正しい見識を持って、結局は「断念」するのであります。

結局、行動は「断念」に至るのであります。

「諦め=断念ということではない」という言葉を、そのまま字義どおり受け止めると「断念しなくても良いのではないか」あるいは「やっぱり断念せず、あきらめないほうが良いのか」というふうになってしまって、かえってぎゃくにわけがわからなくなる。

そうじゃなくて、結局やっぱり「諦め=断念」で良かったのですね。

しっかりと観察し思考を整理して論理的に考えた結果、意味のない執着は断念してしまう。

 

「死への抵抗への執着」も、意味はあまりないといえますね。

結局みんな、死んでしまうからなあ。

お釈迦様でさえ、空海でさえ、ジャイアント馬場でさえ死にました。

人類200万年の歴史のなかで、死ななかった人なんて、いままで一人もいなかった。

ていうことは執拗に死に抵抗するというのは、本質的にはあまり意味のない行動といえますね。

このへんのことを「腹の底から」理解できたとき、これを「諦」というのかもしれませんね。

 

病気しようが、死のうが、知るもんか。

それがどないしたんやアホンダラが。

っていう境地まで行けたら、もうパニック発作なんか絶対に出ないでしょうね。

むしろ喜ぶかもしれない。

 

そういえば動悸がするなど調子がおかしいと感じた時「あきらめる」と、わりと調子がよくなったりすることは確かにあります。

「これでほんとうに心臓がおかしくなって死ぬとしたら、よく考えてみると、それはもう致し方のないことかもしれないな」

と思ってみる。

だってほんとうに心臓がなにかおかしいというのなら、抵抗したって無駄です。もう遅い。

しょうがないな。そうかおれは、これで死ぬのか。

そう思うと、なんか逆に案外、楽になったりします。

 

ある哲学者(エピクロスだったかな)は「死は私たちとは無関係である」とも言ってましたね。

われわれが【現在】するときには死は【現在】せず、死が【現在】する時にはわれわれはすでに【存在】しないからである、っていう。

生きているものは死人になれず、死人は生きているものにはなれない。

死ねばその死を認識する「いまのわたし」は消滅する。

主体が消滅すれば認識できる客体も同時消滅するので、死はあくまで生きているもののための定義であり、死人のための定義ではない。

生は死と無縁ではなく、死は生と無関係ではないというのは、それはあくまで「生きているものの屁理屈」にすぎない。

だから死は、生きている我々にとっては本質的に無縁なものである、っていう。

 

いいなあ、そういうの。

そのうちぼくも、そんなふーに思える日がくるのだろーか。

 

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