母親がかつて創価学会に在籍していたことで、ぼくも幼少のころからよく法華経を読まされました。
むろん漢語のまま読むので、なんのことやらサッパリ意味がわかりませんでした。
その後勉強会などに連れて行かれるようになって話を聞いていたのですが、これまた意味がわかりませんでした。
いちばん意味がよくわからなかったのは「本尊がなぜ漢字なのか」ということでした。
日蓮宗では日蓮が書いたとされる掛け軸のような「曼荼羅」を本尊としています。
教義には「全人類が」「全宇宙が」という話がよく出てくるのに、どうして本尊は「中国語」なのか。
また南無妙法蓮華経という「中国語」なのか。
まだ「絵」なら多少理解できるのです。
絵というのはコトバとはちがって、それこそ全人類が、教育も受けていないような文盲のひとにも理解できる可能性があるからです。
全人類を救うといいながら、どうしてその本尊は一部のひとにしか理解ができない「文字」で記述されていて、またその修行法である唱題がなぜ「中国語」なのか。
この質問についてまっすぐに答えてくれたひとは誰もいませんでした。
結局「日蓮大聖人が……」という話になって、つまりはエラい人がそう言っているのだから、それが理解できるようにお前ももっと勉強しなさい、という話で終わることが多かったです。
場合によっては「そんなことを考えるな!」といって怒られたことさえあります。
しかしどうにも腑に落ちなかったのが、結局は「文献主義」であるということでした。
法華経と日蓮が残した遺文、それと池田太作氏の著作という「文献」に論拠を求めていて、それ以外のものを拒絶する。
ガキでも「そんなことでは何もわからないのでは」と思いました。
結局全部中国語と日本語で、そんな偏ったことで何がわかるのだろう。
創価学会では法華経のサンスクリット語文献にあたるということもしていないようでした。
もっと勉強しろと言われたので、ぼくは図書館に通っていろんな経典を読みました。
もちろん「現代語訳」ですけれども。
そこで発見したのが「現代語訳・法華経」というものでした。
おっ! これなら、ぼくにもわかるのではないか!
宝物を発見したような気分でしたねえ。一気に読みました。
……でも結局、よくわかりませんでした。
「なんなん? これ。 意味が全然ないやないか」
それが第一印象でした。
当時はまだ小学校の高学年ぐらいだったので、これはぼくの読解力が足りないせいだろうと思ってあきらめました。
しかしその後大学生になってたまたま同じ本を本屋で見つけ、また読んでみました。
しかし、それでもよくわからない。
ぼくはけっこう読書家だったので、読解力じたいにはそこそこ自信はありました。
それでもぜんぜん、意味がわからないのです。
ぼくに理解ができたのは、
・「この経」を大事にして読めば、ものすごいご利益があるぞよ
・仏様は永劫の過去から永劫の未来まで存在しているぞよ
・ていうかそもそも、すべての人間はもうすでにその仏様なのであるぞよ
ということぐらいでした。
いやだからその肝心の「この経」は、どこにあるねんな。
巻末特集にさえ、なってないやないか。
ううむ。
大学生になっても、小学生のときと同じぐらいのことしかわからないのでありました。
なんじゃこりゃ。
同じ疑問を持つひとも多数いるようで「法華経無内容論」というのもあるようです。
この経この経と自分自身を指すことばがしょっちゅう出てくるものの、その肝心な「この経」も、実際の修行法も、どこにも出てこないのです。
だからもしかするとこの法華経というのは「ほんとうの法華経」の「序文」みたいなものなのではないか、みたいなことを思ってしまう。
うーむ、しかし、だとしたらなぜこのようなものが古来ものすごく大切にされてきたのだろうか。
ただ「ありがたい」というだけで、みんな大事にしてきたのか?
しかしたったそれだけのことで、たとえば日蓮のように「命がけで」これを守り広めようと思ったりするだろうか。
法華経無内容論というのは下手すると「昔の人をバカにする」可能性があります。
なにもわからないくせに、バカだから、ただありがたがっていただけなんだ、みたいな。
いやまさか、そんなこともないだろう。
最近坐禅をするようになって、ふと思いついたことがあります。
坐禅をするようになると、自分自身が考えていることというのはじつはあやふやである、ということによく気がつきます。
わたしの考えや感情には論拠も根拠もあると思い込んでいるけれども、じつはただの勘違いだったり、ただの反応に過ぎないということが多いのです。
基本構造としては、酔っぱらいによく似てる。あてにならない。
そこで、こう思ったのです。
「法華経の訳じたいも、あてにならないのではないか」
いえ、翻訳した学者さんが間違えていると言っているのではありません。
そうではなくて、人間というものは、自分自身のことさえも正しく理解ができないというのに、ずいぶん昔に書かれた文章の、それもいまは存在しない言語を理解するなんて、そもそも不可能なのではないか。
「輪郭」ぐらいしか、わからないのではないか?
まず元々は、経典なんかなかったんですよね。
すべては口伝えで暗唱で伝えられていました。
それを文字にするようになったのはお釈迦様が死んで100年以上経ってからなんだそうです。
そして現存する大乗仏典のほとんどはお釈迦様が直接説いたものではなく、弟子たちが追加追加で編纂していったものなのだそうです。
こつ然と思ったのです。
「経」ということばの意味が、もともとは違っていたのではないか。
サンスクリットで妙法蓮華経は「サッダルマ・プンダリカ・スートラ」というそうですが、妙法がサッダルマ、蓮華がプンダリカ、経がスートラです。
このスートラという言葉には、もともと多重的な意味があったのではないか?
スートラという言葉の語源は「糸」なのだそうです。
葉っぱや木片に記したものを糸でつなぐので、本や経典を「スートラ」と呼ぶようになった。
さて、では口伝のときに使う「スートラ」とは、どういうことになるのでしょうか。
ことばというのは物質として残りませんから、「経典」ということではないと思います。
もしかして「ひとつながり」つまり「一連の」とでもいうような意味を持っていた、ということはないのでしょうか。
ぼくたちは生まれたときから本や文字というものが当たり前にあることを前提に話をしていますが、お釈迦様がいた当時はあまりメジャーではなかった。
だから「この経」ということばは、必ずしも「文献」を指しているわけではない、という可能性はないでしょうか。
どんな言語でもそうですけど、言葉というのは「ID」ではないのです。
文脈によって同じ単語でも全く違う意味を持つことは多いです。
文中にでてくる「経」は、経典とか文献とかそんなたいそうな意味ではなく、ほとんど指示語に近い「この一連」とでもいうふうに解釈すると、どうなるのか。
「この経を受持すると、たいへんな功徳がある」
これはもしかすると「これを体験するとたいへんな功徳がある」ぐらいの意味かもしれないです。
そしてここでいう「この」を、「ブッダの悟りの境地」という意味であったり、あるいは「仏道修行そのもの」を指しているとなると、さらに意味が明確になってきます。
「この経」の部分を「仏道」とか「悟り」というふうに置き換えて読むと、すごくすんなりと読めるような気がするのです。
そうなってくると「この経」という部分は、まあいわば当然なことで、話の全体の価値を強調したり荘厳化するために多用されているレトリックかもしれず、とにかくもうあまり重要ではなくなってきます。
そして俄然、別のポイントが最重要部分として浮き上がってくるのであります。
・仏様は永劫の過去から永劫の未来まで存在しているぞよ
・ていうかそもそも、すべての人間はもうすでにその仏様なのであるぞよ
ようするに、これが言いたかったのではないか。
スっと読むと、え、なにそれ、たったそれだけ? だけれども、当時のインド、あるいは当時の社会全体としては、腰を抜かすほどのものすごい話だったかもしれません。
日本でも女性は成仏できないとかいう差別的な話があったり、インドなんかではカーストの最下層のひとはもう成仏云々の話から完全に外されていたという話も聞きます。
いまでこそ男女平等・差別禁止が当然の世の中で生きているので、そんな話を聞いても「あ、そう」てなもんですけど、これは当時としてはすごい話だった可能性があり、こんなことを言うひとさえほとんどいなかったかもしれないですね。
そしてこの思想は、坐禅と完全に一致しているのです。
坐禅という修行によって人がブッダに変化するのではなく、人はそもそも全員もれなく完全なるブッダであって、ただそれが見えない、感じていないだけである。
だから坐禅によってブッダになるのではなく、坐禅することそのものがブッダである、というのです。
悟りを目指すのではなく、悟りを得ようとするのではなく、「わたしはブッダであった」ということに「気づく」ことが修行である、というのです。
もう仏様なのであるから、なにも今更がんばって「得よう」「変わろう」とする必要なんかない。
ただ気づくだけだ、と。
だから結局、もしかすると坐禅が目指す境地というのは法華経の世界観そのものである可能性もあるのではないか、と思いました。
道元が晩年非常に法華経を大切にしていたというのも、そういうことなのかもしれません。
法華経は修行方法をまとめたノウハウ本ではなく、新しい思想を提示する哲学書でもなく、仏教の功徳を喧伝する広告ムック本でもなく、ただ「悟りそのもの」を言語で表現した一種の芸術作品であった、という可能性もあります。
人は全員、うまれながらにして仏の種子を持っており、またそもそもからして、もう仏である。
修業によって仏になるのではなく、もうすでに仏である。
それにしっかりと気がつけば、もうどのような困難も意味を完全に喪失し、無限絶対安寧の境地に至るのである。
人は全員仏なのだから、性別年齢職業貴賤関係なく、全員もれなくその境地に到れるのである。
……という大乗仏教の「真髄」のようなことを書いてあるから、みんながものすごく大事にしてきたのではないか。
この観点からすれば、法華経は「無内容」どころかむしろこれこそが最大最重要の本質なのであって、それ以外のお経はもはや「この状態」に至るためのノウハウ本や解説本、注釈書というふうにも捉えることが可能です。
わたしたちは、もうすでに、無限の過去から仏であった。
そして無限の未来まで、仏でありつづける。
またすべての生き物もみな仏様、この地球もまた仏様である。
死ぬことは旅立ちでも別れでもなく、無限の仏に回帰することである。
旅先から「ほんとうの家」に帰ることである。
もしかすると仏教徒というのは坐禅をしたりお経を唱えたりなにかに祈ったり後生を願ったりすることを言うのではなく、この思想をしっかり「こころに持っている」ことを指すのかもしれませんね。
まあなかなかそう思えないところもありますが、すくなくとも「わたしたちはみんな奴隷である」という思想よりかは、よっぽどステキだなと思います。
あのひとも、このひとも、あまり好きになれないあの人さえ、みんな貴い仏さまなんだから、バカにしたり殴ったりイジメたり殺したりするなんて、とんでもないことです。
じぶん自身だって貴い仏様なのだから、自分をいじめたり、無理に変えようとしたり、きらいになったり、自殺したりするなんて、とんでもないことです。
いきものも地球も仏さまなのだから、それらをいじめたり破壊することも、とんでもないことです。
ほんものの仏教徒は、ひとのことも、じぶんのことも、いきものも、地球も、たいせつにする。
それが法華経の言いたかったことのひとつなのではないのかな、と思ったりもします。