最近わりと調子が良いのですけれども、症状が良くなったわけではありません。
相変わらずたまに動悸がしたりソワソワしたりして、例のパニック発作につながる症状が出ることはあります。
でもその頻度や継続時間がぐっと減って、あまり気にならなくなってきました。
変わったのは神経やカラダのほうではなく気持ちのほうかもしれないな、と思うのであります。
以前は急に動悸や焦燥感が出た場合、どうしようかどうしようかと悩み考え抵抗し、いろんなことを試していました。
しかし最近はもし症状が出たとしても「とくになにもしない」ことが増えてきています。
呼吸がどうとか姿勢がどうとか栄養がこうとか考えず、とくになにもしないで、そのままそのときやっていたことを続行する。
じつはそのほうが早く症状が収まるということもわかってきました。
「理解したいという煩悩」に気がついたのです。
なぜこのような症状がでるのか。
そのメカニズムはいかなることなのか。
原因はなんだろうか。
私の肉体のどの部分に異常があるのだろうか。
そういったことをいっしょうけんめいに考え、調べ、探し、試すのでした。
しかし冷静に俯瞰してみれば、そもそもパニック障害のような神経症は神経の興奮がよくないと言われているのに「考える」「調べる」「探す」という最も神経が興奮するようなことをしていては、治るものも治らんはずです。
いったい、なにをやっとるんじゃ。あほとちがうか。
神経やホルモンの問題をとやかくいうまえに、ぼくのこの「理解したい煩悩」にこそ、本物の総大将がいるのではないか。
ということに、ふと思い至ったのであります。
理解して、原因を取り除けばすべての問題は解決する。
そのような妄想に取り憑かれていたのかもしれません。
たしかに理解して原因を取り除けば解決できることはあります。
しかしこの世のすべてがそのスキーマの中に存在しているわけではありませんし、また自分自身の理解力や思考力などの能力の限界もあります。
結果的かつ現実的には、「理解」というのは有限で思ったより狭い範囲でしか効力がない。
この世のことは、わからないことのほうが圧倒的に多いのでありますね。
そのまったく明らかな証拠は現在この世に科学者がたくさんいるということです。
科学は確かにずいぶん発達しましたが、その科学の範疇ですべての物事が氷解したというのであれば、もう科学者なんか必要はないのです。
なのになぜいまだにたくさん科学者がいるかというと、まだまわよくわからないことがたくさんあるからにほかなりません。
たいへん賢く有能な方々でも解き明かせないことがいまだに山程もあるからこそ、科学者という仕事はその使命が終わっていないのです。
だからパニック障害の治し方やその発生機序がわからないなんて当然中の当然、べつになにひとつ珍しくない現象なのでありました。
じぶんの何十倍も賢いひとたちでもわからないことが、はたして自分にわかるだろうか。
その確率と可能性はいかほどのものであるか。
執念をいくら燃やしたところで、いくらたくさん本を読んだところで、たかだか東大の理学部にさえも合格できなかった自分のアタマで明確な成果が見込めるであろうか。
もしかしたら、びっくりするほど不毛なことをしているのではないか。
この立ち位置に立ったとき、忽然と気分が楽になったのです。
自身の病気に限らず、「理解しようとする」ことで余計な苦労を背負い込んでいたことは非常に多い。
ぼくはわりと人に気を遣う傾向があるのですが、この性格の原理の中枢は「ひとの気持ちを考える」という努力です。
言い方をかえれば、考えれば人の気持は理解ができると思い込んでいたわけです。
んなわけあるか、このあほんだらが。
人の気持なんてすっかり理解することなんかできないのです。
たとえばパニック障害で苦しむ息子の気持ちは親でさえ理解ができません。
かわいそうであるとかどうにかしてあげたいとかいうのはあったとしても、それは残念ながらまったく理解とは程遠いですし、はたして愛でもありません。
それらはただの感情であり場合によっては責任感などという防御的心情に過ぎないこともある。
むろんそこに愛がないわけではありません。
愛があるからこそ心配をするのですが、心配をするのは「わからない」からです。
完全に相手の気持ちを理解できていたら、心配などする必要がありません。
ましてやじぶんの周囲の人たちの「気持ちを理解しよう」だなんて不毛を通り越して無謀であります。
それは、できないことなのです。
がんばればできるとか、すなおになればできるとかいうふうな、そんな条件付きの可能性ではなく「できない」ことなのでした。
できないことをいっしょうけんめいにやろうとするのも、わるいことではありません。
でもそんなヒマがあるのなら、できる可能性があることをいっしょうけんめいにやるほうがラクだし有意義なのではないか。
ようするに、えらそうなのです。
わたしには理解ができるかもしれない、たいして賢くもないくせに、そんな妄想に支配されていた。
わからないことは、わからないままで、いいではないか。
わからないことをわかるようになったとして、でももしそれが「わかってもできない」ことだったら、どうしますか。
そんなことはたくさんある、だから身の丈にあった世界で理解できることをすこしづつ増やすほうがいいのかもしれないです。
たとえば仕事とか、勉強とか、趣味とか。
身の丈を超えたことを無理に理解しようとすると「わかったつもり」で終わることが多いのですよね。
それがたとえばエセ科学や怪しいスピリチュアリズムだったりするのだと思います。
波動やイオンなどその本質的な現象をしっかり理解しないまま科学っぽい言葉に振り回されると高い確率でカルトっぽい妄想に取り憑かれる。
ほんとうはなにもわかっていないのに、これが法則だなどといって、わかったつもりの闇のなかで大声を張り上げる。
これを「狂人」という。
わからなくてもいいことをわかろうとしたとき、人間は狂い始めるのでしょうね。
身の丈に合わないことは、思考も服も似合わないです。