パニック障害という診断じたいが原因である、ということもあると思うのであります。
そんなよくわからない病名を告げられたら、だれだってこう思う。
「わたしは異常なのだ」
自律神経失調症だってそうです。
これまたよくわからない病名で、だからだれでも、こう思う。
「わたしは異常なのだ」
だから異常って、なんなの?
ひととちがう、ということであれば、それこそだれだってそうです。
同じひとは一人としていないのだから、そういう意味では全員が異常だともいえる。
ノーマルではないとか正常ではないとか、そういうのも結局はおなじ話になって突き詰めていけば意味がよけいによくわからなくなる。
まあ、これは屁理屈だけれども。
屁理屈かもしれないけど、
「異常だと思う、その気持ちが原因」
っていうのはあると思うのであります。
ぼくはパニック障害とか自律神経失調症とか診断されて、その主な症状はようするに、
・強烈な焦燥感
・イライラ、そわそわ
・強烈な息苦しさ
・動悸、息切れ、発汗
というところです。
この症状だけをバリバリに凝視していると、確かにたいへん異常であるとは感じます。
しかしいっぽう「なぜ、そうなったのか?」というところを横目でいいから眺めてみると、案外異常ということではないのではないか、と感じたりもします。
つまりこれはそうなるべくしてそうなったのではないか、という。
だいたいの人、そう。
この感覚を持てば、ぼくの症状というのはわりかし「あたりまえ」なのではないか、と思えてくるのでありました。
たとえば、ぼくは仕事柄ずっとパソコンを使っています。
たまにどれだけ連続してやっているかを計測してみると、ふつうに4時間ぶっ通しで作業をしていることがあります。
手帳に記録をし、その結果を眺めていて思ったのであります。
「これだけ連続してパソコンを触っていたら、だれだって息苦しくなったりイライラするのでは」
パニック発作をはじめて発症したころ、ぼくは大酒飲みでした。
週のうち4日は飲みにいっていて、その量もものすごかったです。
家に帰るのも午前様なんてしょっちゅうでした。
また当時の仕事は結構ハードで、飲み会がなくても夜の11時12時まで働いていることは多かったです。
これも、思うのであります。
「そんなことをしていたら、だれだって気分が悪くなるんじゃないの」
そんな忙しい毎日だったから、あまり家の掃除もしていませんでした。
割ときれい好きなので「見えるところ」はまあまあきれいにしていましたが、見えないところはとても汚れていました。
ゴキブリもよく出てきていました。
これも、思うのであります。
「そんなところで寝起きをしていたら、だれでも体調が悪くなったりするんじゃないの」
辛いもの、塩からいものが大好きで、またけっこう大食いの早食いでもありました。
これも、思うのであります。
「その習慣は、血糖値や血圧の乱高下を招いて、だれでもそうなるんじゃないの」
仕事でパソコンをたくさん使うくせに、休みの日でも映画を見たり、またネットサーフィン的にずっとパソコンを使っていたり、ゲームをする日さえありました。
すると神経が興奮してきて、夜の寝つきがわるくなったりもします。
これも、思うのであります。
「そんなことしてたら、だれだって神経が疲れてくるんじゃないの」
そして性格上わりと責任感や善悪観念が強い、というのもあります。
任されたことは絶対に守る的な、やや白痴っぽい衝動があります。
そのせいで無理をしてでも仕事を継続してしまうことも多いですし、いつも薄〜く仕事や約束のことが気にかかっている、というのがあります。
そしてなぜこのような強い責任感が芽生えるかと言うと確実に「視野が狭い」からなのであります。
いまそれをしなくても、あるいはその締め切りを少し過ぎたとしても、多少倫理に外れたとしても、死にはしないどころか全体のフローにはそれほど大きな影響はないのです。
「ゴメンネ」で終わることは、思ったよりとても多い。
だから、なんだろう? もしかして「謝るのがイヤ」なのか?
もしそうだとしたら、真面目どころかたいへんにプライドの高いイケスカナイ野郎でありますね。
まあいずれにせよ、結局なんだかクソ狭い世界でクソ小さなルールを遵守することに躍起になってしまって「大きな世界」がちーとも見えていないのであります。
これらの習慣などを統合すると、
・大酒飲みで、夜ふかしして、
・仕事がハードで、
・いつも寝不足気味で、
・食生活が乱暴で、
・目とアタマをよく酷使していて、
・責任感が強くよく無理をして、
・いつもなんだか微妙に不安を抱えている。
こんなことを長年続けていたら、体調や神経を壊してしまう。
っていうのはまさに、
だいたいの人、そう。
なのでありますね。
なーにが「わたしは普通ではない」じゃあ。
なーにが「わたしは異常である」じゃあ。
なーにが「わたしは繊細である」じゃあ。
なーにが「わたしは特別である」じゃあ。
そうなるようなことをして、そのまますなおに、そうなった。
むしろ「ド直球の普通」ではあーりませんか。
だいたいの人、そう。
自分を特別だと思わずに、自分だって「だいたいの人」の仲間のひとりであると知ったとき、じつは自分自身に問題があるのではなく「していること」「こだわっているところ」に問題があったことが見えてきたりもします。
ぼくはだいたい、だいたいの人とだいたいおなじような反応をしている。
その組み合わせや頻度があまりにも偏ってしまったがゆえに、ふつうの反応が重なって重なって、重なって重なって重なって、まっくろけに見えているだけかもしれない。
いやもっと正確にいうと「重なって真っ黒に見える角度から見ている」だけかもしれない。
立ち位置の問題じゃねえの。
繊細や過敏さや弱さが原因なのではなく、むしろまったくその逆で、このことに気がつけない「愚鈍さ」「頑固さ」こそが根っこなのかな、と思いました。
そして肝心なことになかなか気がつけないのも、小さなことにこわだって大きな世界が見えないのも、これまた「だいたいの人が、そう」なのでありました。
だからなにも改善なんかしなくていいし、どうせできないでしょうね。
これを努力で改善できたら、もう「だいたいの人」ではないです。すごい人。
すごい人は、だいたい、おかしい。