原因は複数、結果はひとつ

パニック障害や自律神経失調症がなかなか治らなかったのは、ぼくの「認識」が正しくなかったところが大きいと思うのであります。

 

ぼくはずっと、考えてきました。

「この不具合には、原因があるはずだ。」

これをもう少し具体的にブレイクダウンすると、こう考えていました。

「この不具合には『唯一の』原因があるはずだ。」

 

それはたとえば、

骨格の歪みなのか、

栄養の偏りなのか、

血行なのか、

考え方なのか、

性格なのか、

呼吸なのか、

疲労なのか、

何らかのアレルギーなのか、

ストレスなのか、

記憶なのか。

 

なんらかの「主な原因」を取り除けば、この症状は改善あるいは快癒するはずである。

……と「論理的に」考えていたつもりでしたが、なんのことはない、これは論理的でもなんでもなくて、じつはただの感情論です。

「そうなるはずだ」という仮説ではなく、「そうなってほしい」という願望だったのです。

 

どのようなトラブルであってもその原因が「唯一」であるということはかなり珍しいほうです。

何かを改善したらすべてがうまくいったということは確かにあるけれど、それはわりと特殊な事例で、単純な機械などではそのようなことはありうる。

しかし複合的な機構においては必ずしも原因がたったひとつではなかったということのほうが多い。

「原因と結果」というユニットが複数存在していて、そのユニット同士が影響しあい新たな原因と結果を生み出すというのはむしろノーマルな現象といえます。

 

だから「首のホネを治したらパニック障害が治った」というのは、可能性としてはもちろんありうるけれども、おそらくその確率はかなり低いのだと思います。

「首のホネの歪みがほぼ唯一の原因であった」という人にはその方法論は有効だけれども、おそらくほとんどの人はそんなに単純な因果律によって発症しているのではない。

これは先に掲げた栄養や血行や呼吸などといった想定原因のすべてにあてはまる。

実際にはもっと複数の、おそらくは平均して4~5個ほど、ひとによっては十数個の因果ユニットが交錯して「ひとつの結果」として表現される。

何をやっても治らない——それはもしかすると「ひとつの結果にはひとつの原因」という空想に支配されていたからかもしれません。

つまりぼくはファンタジーの世界観で現実世界の問題を解消しようとしていた。

何かを変えたらすっかり治ってしまうという「魔法」を求めていたに過ぎないのかもしれません。

 

原因は複数、結果はひとつ。

 

この公式こそがノーマルであったことを忘れていたのでした。

ほとんどの場合、複数の原因による複数の因果が交錯してひとつの結果に収束していく。

結果は原因と因果の相互影響を示す「表現」にすぎない。

結果がひとつになるのは、あたりまえです。

ぼくという存在は、ひとつしか存在しないからです。

とくに神経やこころの問題については「じぶん」という唯一の存在を通じてその結果が表現されるので、いくら多くの原因を抱えていたとしても、結果は必ず「ひとつ」になる。

 

だからぼくが目指すべきは「原因の解消」などというせっかちな方向性ではなかった。

それをするまえに、することがあった。

復号」です。

暗号を解読するように、もつれて固く固く引き締まった結び目を「解いて」いかなければならない。

「一対一の因果律論」を捨て去らないまま、まるでドミノ倒しのように芋づる式に改善することを夢想し手当たりしだいに方法論を試していても、改善することはまずないと思われます。

そういうことをすると新規の努力によってむしろ新しい因果を追加してしまうので、その「もつれ」はさらに複雑、さらに難解強固なものに変化していくかもしれない。

これを「よけいなこと」という。

 

復号のために、必要なこと。

暗号解読においてもそうですが、まずは「観察」なのでありますね。

どのような現象が起こっているか、冷静に、ていねいに観察すること。

そして論理的、現実的な思考。

しかしパニック障害など精神的に不安定になる不具合ではこれがなかなかできないので、お医者さんがこれをしてくれるのでした。

 

何らかの理由でお医者さんを頼れない場合、これを本人がしなくてはなりません。

その場合に必要なのは、何をおいても「根気」にほかなりません。

何千回何万回と発作を繰り返しても、絶対に負けずに解読を試みるのです。

幸いなことに、現実世界の不具合はコンピューターのMD5やSHA1ハッシュのような不可逆式暗号ではなく、かならず逆算ができるようにできているし、数学の知識もいらない。

「暗号だと思っているだけ」。

ほんとうは暗号化なんかされていない。

偏界かつて隠さず、この世のすべてのことはあけっぴろげで、目の前にそのまま開陳されている。

見えないのは、見ようとしていないだけである。

 

これを信じ、わが因果律をハッキングせよ。

時間はかかるかもしれないが、きっと可能である。

 

 

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