掃除を毎日するようになって151日めを迎えました。
ということは座禅も151日めということになります。
掃除をするようになって気がついたのは「動かさないとホコリは溜まる」ということです。
まあ、あたりまえなんだけど。
そんなことは、物理的論理的な意味では当然前からわかっていたのですが「身を持って」これを味わうことで、確実に思ったことがあります。
「こころも、からだも、同じではないか!」
箒で掃いたりゾーキンでこすったりハタキでハタハタやったりしているけれども、これは結局ようするに「ホコリや汚れを動かしている」のであります。
きれいにしている、という目的に視点をシフトするだけでなく、汚れやホコリそのものにフォーカスすれば、そういうことになる。
べつに掃除という行動でなくとも部屋全体くまなく暴れ回るだけでもまあまあきれいになっていきます。
ホコリや汚れは、それを「そのままにしておく」から溜まっていく。
こころの汚れも、からだの汚れもまったく同じではないか。
「汚さない」なんて、どだい無理なのです。
「汚れを遠ざける」というのは効果があるけど、そんなことをしたら、生活の範囲が極端に狭くなっていきます。
「汚れを嫌い」「汚れを恐れ」「汚れを遠ざける」と、身も心も不自由になっていく。
どんどん、どんどん、不自由になっていく。
部屋も、からだも、こころも同じなんですね。
からだにわるいものを遠ざけ排出することばっかり考えていたら、人間がほんとうにくだらなくなる。
浄化浄化デトックスデトックスうるさくいうのは、こころのなかに汚物が詰まっているからだ。
こころの汚物を排出する代償行為で「排泄行為」に執着してしまうのである。
確かに排出することは重要だけど、そのためにはまず「動かす」ことが必要ですね。
動かしもしないで勝手に出ていってはくれない。
水をがぶ飲みしようが、コンニャクやゴボウを大量に摂取しようが、こころの汚物は決して出ていかないのである。
こころの汚物は、こころを動かしてはじめで「出る」準備がととのう。
汚れた服がつけ置きだけではなかなかきれいにならいのと同じく。
撹拌し、こすりあわせ、振り回してはじめて汚れはとれていく。
からだもほとんど同じだろうと思う。
病気の多くは「滞留」から起こるといいます。
毒素や不要物などが一箇所に滞留することで、そこに病が発生する。
血液の停滞、体液の停滞、呼吸の停滞はさまざまな弊害を引き起こす。
DO NOT STAY.
とどまるな。
そんなことばが、ピコーンと落ちてきたのでありました。
一箇所にとどまって動けなくなるのは、こころが停滞したからだ。
そしてこころの停滞は、からだを動かしていなくても起こる。
座禅をはじめたころは、
「こころを止める」「集中する」「動かない」「停止する」
っていうことに躍起でした。
しかし日々続けていくうちに、気がついた。
こころをまったく動かさないというのは、どだい不可能である。
また同様に、からだをまったく動かさないというのも、どだい不可能である。
生きている限り呼吸はしているし、心臓も内蔵も動いてる。
重心をとるために、数ミリ程度必ず「ゆらめいて」いる。
わたしが座っているこの大地は一切不変、堅牢至極の金剛不動に思えるけれども、実際には時速1700kmの超高速で動いている。
動いていないようでも、ほんとうはダイナミックに動いている。
こころの安静とはフリーズしたようにこころを一時停止させることではない。
一箇所に集約することではない。
不動というのは「動いても、また戻る」ということだけにすぎない。
あるいはこの世の動きと同じ速度で動くということにすぎない。
むしろよけいなことに執着することによってこころはその場に停滞しがちになる。
こころがフリーズし、地縛する。
もし執着をすべて切り離すことができたら、こころはたぶん雲や風船のようにゆるやかに動き続けるだろうと思う。
ゆるやかに、しなやかに、ダイナミックに動きつづける。
それが「自然」ということなのだろうと思いました。
だから結局「動こう」と思いました。
こころも、からだも。
いろんなことを、考えよう、悩もう、気にしよう、反応しよう、やってみよう、失敗しよう、変化しよう。
欲をもって、こころのアップダウンをたのしもう。
勝って喜び、負けてくやしがり、ふざけてわらい、褒められて天狗になり、けなされて怒り、死に恐怖し、悲しみに涙しよう。
あるきまわろう、うごきまわろう、はしりまわろう。
それで良いのである。
人間は、いきものは、それで良いのである。
というかこの世にあるすべてのものは、それで正解なのである。
考えること、悩むこと、気にすること、反応することをやめたって、結局なんにも変わらない、変わるわけがない。
この世の摂理は諸行無常、それならば、わたしのこころも無常であり、わたしのからだも無常である。
無常であるからこそ、穢れない。
欲を捨て、足るを知り、ものを持たず、行動を制限するのは、実際にはそのこと自体に執着しているからなせるわざである。
見たとおり、そのまんま、ミニマリストほど悩みが多く穢れていて、むしろ強欲である。
人間は、いきものは、うごくようにできている。
欲があるからそうなるし、そうなるために欲がある。
欲は摂理の賜物であり、また摂理そのものである。
そしてわたしたちもまた、摂理そのものである。