ストレスと空間と

ううむ、やっぱり「ストレス」だったのかなあ。

 

ぼくはかつてお医者さんがみんな「ストレス」ということについてムカつきを覚えていました。

自律神経の失調やパニック症がの場合、みんなハンコで押したかのようにストレスストレスいうのです。

ストレスって「刺激」だからな!

いっさい刺激のない生活なんかあるもんかボケぇ!

みたいにキレておったのでございました。

そうなった理由のひとつに、そもそもストレスを一切感じていない、というのがありました。

 

昨年の春ぐらいからどうも気管支の調子がおかしかったのです。

咳はほとんど出ないのですが息苦しく、息をするとヒーヒー言ったり黄色いタンが出ることもありました。でも熱は全く出ないのです。

そのうち治るだろうと思っていても全然治らず、一時期はこの息苦しさが原因でパニック発作に陥ることさえ多々ありました。

もうだめ、病院に行こうかと思ったら、そんなときに限ってスカっと治ったりもします。

なんなんじゃこれは。

 

とにかく掃除をいっしょうけんめいにやったり、毎日座禅をするようになって、どんどん調子が良くなっていきました。

無論完全ではありませんが、一時期のような呼吸困難のような感覚はありません。

なので「ハウスダストが原因だったのでは」と勘ぐったりもしていました。

 

思い出したのです。

そういえばこのような症状、小学生のころにもあったなあ。

いわゆる「空咳」のようなものが出て、のどがヒーヒーいって、タンが絡んだような感じが続いていました。

そのとき病院に連れて行ってもらったら結果はなんと「精神的なもの」だったのです!

当時、両親が毎日大喧嘩をしていました。

それはもう、そのうち殺しに発展するんじゃないかと思えるほどの激烈な喧嘩でした。

また母親は当時創価学会に入れ込んでいたこともあり、毎朝毎晩「勤行」という修行のようなことも強制的にさせられていました。

つまり、ストレスが溜まっていたのです。

「言いたいことが言えない」ことが続くと、気管支に異常が出ることがほんとうにあるのだそうですね。

いわば「精神的な喘息」。

 

今回のぼくのそれも、そうだったんじゃないか。

もともとパニック障害があるうえに、自律神経の具合がわるくなって、動悸やめまいなどにさんざん苦しめられました。

時にはほんとうに誰かを殺してしまうのではないかと思うほどの激烈な怒りに苛まれ続けたことさえあります。

そんな日々が1年近く続きました。

こんなもん、まごうことなき「ストレス」ですよねえ。

仕事上の、とか、人間関係の、みたいな、そんな社会的ストレスなんか可愛く見えてくるほどの強烈なストレス。

じっさいこれを経験したことである意味ぼくは一般的なストレスにはまあまあ強くなりました。

人の顔色を伺うなんてことはしなくなったし、仕事で失敗したって鼻くそをほじっています。

そんなもの、もうストレスとはいえないのです。

だって誰も殺しにくるわけでもないし、もし殺しに来たって「逆に殺してやる」ことさえ、いちおうは可能だからです。

逃げるという方法もあるし、仕事や会社ならやめるという方法もある。

地位やプライドや将来の不安などなら、あきらめるという方法もある。

つまり対処の方法が選べる。

しかしここ1年あまりの不具合には、一切の対処法が効きません。

病院の先生でさえ原因がわからないというのです。

断続するパニック発作のように「いままさに、死ぬのではないか」というような逃げ道のない強烈なストレスに日々さらされることに比べれば、社会的ストレスなど冗談抜きで「ガキの悩み」にさえ見えてくるのでした。

 

それに加えて、両親の心配という重圧もありました。

「おまえの病気はいつになったら治るんだ。何月何日に治ると約束してもらわねば、我々は安心して死ねない」などという無茶なオーダーさえ受けることになる。

それがわかればなんの苦労もないっちゅうに。

家族でさえパニック障害の悩みというのは恒久的に理解してくれないものなのです。

しかしこれは、家族がわるいのではありません。

原因がわからない、予測の立たないことには誰だって不安を抱えるもの。

そこを怒っても仕方がないのですが、しかしそこはやはり人間、腹は立つ。

 

さて、そんな日々を決定的に改変してくれたのがじつは「掃除」だったのです。

コイツもう病気じゃないか(まあ実際に病気なんだけど)っていうぐらい、これでもか、これでもかと徹底的に掃除をし、不要なものをどんどん捨てていきました。

そうするとまずは両親の態度が一変したのです。

ぼく本人ではなく、家族の心配性が先に消えていった。

とくに母親は過度な心配性でしたがそれがなくなり、早く直せ直せとぼくに文句を言っていた父親は一切そういうことを言わなくなり、むしろ一緒に掃除をしたりするようになりました。

久々の来客さえ「まるで外にいるような空気だ」というようになりました。

ここまで来るのに毎日掃除をして3ヶ月かかりましたが……。

 

とにかく、まずここで「家族の心配という重圧」が消えたのです。

ようするに、こういうことです。

「病気を抱えている息子に治る日時を約束させようとする」というのを、最近流行のヒューマニズムで捉えればそれはまるで「ひどいこと」のようにも思えます。

しかし両親は悪意があってそうしているわけではない。

もう自身の余命が少ないことと、我が子への責任感などがあいまって、理論的に将来を予測し、どうしようもなくそのような発言をしてしまっているのです。

そしてそのようなマイナスの感情を引き起こすのが、じつは「不潔」という環境だったのであります。

麻痺して感じないが始終存在している微細な悪臭、カビなどの毒素、ゴキブリのフンなどから放たれる悪臭、風が吹くたびに巻き上がるホコリ、積み上げられた不要物から与えられる圧迫感や閉塞感、荷物を出したときに巻き上がるホコリなど、そういった不快刺激の集積によって感情がマイナスのほうに傾きがちになる。

おそらく、人間というのは生来陽気で呑気ないきもので、なぜならば生きるということじたいが陽気で呑気なことだからです。

「なにもない空間」「刺激のすくない空間」にいると、人間は本来の陽気さと呑気さを取り戻す。

性格だの心理だの知識だの記憶だのと知恵者ぶって小賢しいことをいくら調べ学び多弁に述べたところで、実際には人間は「いま、そこ」の環境から多大な影響を受けている。

ややこしく考えるのは、ややこしい空間にいるからである。

くらいことを考えるのは、くらい環境にいるからである。

考え方に余裕がないのは、余裕のない空間にいるからである。

シンプルに考えられるのは、シンプルな空間にいるからこそである。

あかるく考えられるのは、あかるい環境にいるからこそである。

まず環境を改善せねば、こころの改善は絶対に無理である。

ふたつの原因があるのに片方の原因だけ解消しても、なんにもならない。

 

そうしてまず家族の変化が起きたとき、ぼく自身にも変化が訪れます。

いらいらすること、怒ることが減っていく。

同じ仕事でも、早く、効率的にできるようになる。

じぶんがいま疲れているのか、気合が入っていないのかの分別がつくようになる。

いまじぶんに足りないこと、多すぎることが見えてくるようになる。

そうなってくると、もう無駄に無理をすることも減り、不要な疲労が減っていく。

症状が少しずつ改善されていく。

 

胸が苦しい、喘息かもしれない。

そう思っていても、じつはベッドに入って横になると、いつもすっかり治ってしまう。

息苦しくて目が覚めたことなど一度もない。

あるいは座禅をしたりヨガをしたりすると、格段に症状がマシになる。

しかしパソコンなどを触ると息苦しさが復活する。

ということははやりストレスや疲労などが原因だったのだろうと推測できます。

ほんとうに何らかの肉体的不具合があるのであれば横になろうがヨガをしようが座禅をしようが、一切何も変わらないはずである。

 

昨年の中頃まで、非常にストレスフルな環境にいたと実感できます。

いまの状態を1とすれば、当時は20、30のストレスがあった。

掃除、座禅。

これを継続することで、ストレスレヴェルが徐々に低減していったのだと思います。

それにあわせて、喘息のような息苦しさもマシになっていっている。

 

「なんでもストレスストレスいうなっ!」

とキレていた過去自分の首根っこをつかまえて、ビンタしてやりたいです。

人生をナメるな。

いますぐできるかんたんな「環境改善」=「掃除」すら行おうとせず、からだを動かさず、なんでもアタマで考えて、本やネットの情報に依存し、それらを試してばかりいる。

そして周囲が悪い環境がわるい医者が無能と文句をたれていた。

やかましいわ。

いちばん無能なのは、ぼくだった。

理屈にかまけて、理論や知識という空想・妄想のなかで遊んでいただけ。

現実の世界で通用する剣は、現実の剣だけである。

自身を変えることができるのはいつも、思考ではなく行動である。

動かねばならぬ。

ぜひ、動かねばならぬ。

 

 

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