いいことばだなあ。
ほどほどに。
ぼくはこれがいがいと苦手なのかもしれない。
いわゆる凝り性のようなところがあって、そのおかげであまり三日坊主ということにはなりにくいというメリットはあるものの、このせいでよけいな疲労をしてしまったりもする。
いっしょうけんめいに集中して頑張ることも良いことだけど、ひろいひろい視点で見れば「ほどほどに」っていうのがいちばん良いのかも。
考えてみれば各種神経症というのはこの「ほどほどに」ができなくなっている、ということでもある。
極端なのである。
「ほどほどに不安がる」ということができないから、「完全なる不安」になったりして、それでパニックに陥ったりもする。
些細な汚れが気になってずっと掃除したりする人もいる。
ほどほどに怖がることがでくなくて、ちょっと高いところや狭いところにいると「完全なる恐怖」に支配されてしまう人もいる。
クレイジーというのは「ほどほど」という機能がぶっ壊れている人のことを言うのかもしれない。
そもそもからしてガキのころから中途半端を許さぬ神経症的教育をけっこう受けているというのもあるのかもしれない。
徹底的に、とか、最後まで、とか、完全に、とか、きちんと、とか、本気で、とか、そんなふうなややキチガイじみた方向性を推進する風潮が教育にはあります。
しかしこれは教育が間違っているのではなくて、社会がそれを求めているからである。
教育はいつも社会のニーズによって形成されていく。
そしてその教育を受けて育った人たちがまた、社会となって同じニーズを生む。
ぐるんぐるんまわりながら、上昇していく。
なにしとんねん。
っていうことにウスウス気がついてきたから、最近の若いひとたちはあまり「徹底的」ということにこだわらなくなってきているのかもしれないなあ。
こんなことを延々とつづけていたら全員がきちがいになってしまうから、もういいかげんにしておこうぜっていうのを無言で本能的にやっているのかもしれない。
じつはすでにアタマがおかしくなってしまった人たちもこれに近いのかもしれないな。
おかしな世界でおかしくならないのは、強い弱いではなくて、もともとおかしいからである。
おかしくないひとがおかしな世界にいくから、おかしくなる。
「ほどほどに」を許さぬ世界というのは、だれがなんといおうと、狂っています。
「とことん」が美化された世界というのは、だれがなんといおうと、狂っています。
これに気がついたとき、自由になった。
どんなことでも「ほどほどに」が、最高効率である。
健康法もそう。
勉強もそう。
仕事もそう。
遊びもそう。
食べることもそう。
飲むこともそう。
愛することもそう。
ケンカもそう。
オシャレもそう。
お金儲けもそう。
美しさもそう。
スポーツもそう。
商売もそう。
掃除もそう。
整理整頓もそう。
座禅もそう。
落ち込むことも、気にすることも、心配することも、ぜんぶそう。
「ほどほどに」ができなくて「とことん」をついやってしまうのは、あたまがわるいからではないし、ましてや性格に問題があるからでもない。
ただのクセなんだよなあ。
行動原理、といってもいいかもしれない。
「とことん原理」をメインエンジンに使うクセがついてしまったものだから、どんなことにでも「とことん」をやってしまう。
かわいそうな子。
ほんとうはどんなことでも「ほどほど」がいちばい良いのに、ついつい油断すると「とことん」になってしまって、それでいろんな問題をじぶんでつくり出してしまう。
そしてじぶんでつくった問題でくるしみ、それをまた「とことん」解消しようとして、またくるしむ。
かわいそうな子。
とことん原理から、ほどほど原理へ。
メインエンジンに使うには、ほどほど原理のほうが性能が良い。
壊れにくいし、長持ちするし、暴走もしないし、燃費も良い。一生使える。
なぜ、とことん原理をメインに使ってしまうのか?
さきのことばかり考えるからである。
いまの目の前のことをちゃんと見ず、さきのことばかり見るからである。
現存する現在よりも、現存しない虚構の未来を重視するからである。
存在しない虚構を完成させるためには、とことん努力が必要である。
しかし現存する現在を完成させるためには、ほんのすこしの努力でじゅうぶんである。
いまを生きれば「とことん」は消えて、「ほどほど」が残る。
いらないから。
未来とか理想とか、本来はただの妄想にすぎないことを「かっこいい」だなんて思ってしまった瞬間があったのかもしれませんね。
でもほんとうは、こころの奥で、気づいてる。
未来や理想を語るのものでまともな人はいない、ということに。
占い師しかり、詐欺師しかり。
未来や理想は、ひとをだますのにうってつけの商材。
これを使うもの、これにとらわれるものは、おなじあなのむじなである。