迷い悩むのも良し

座禅を150日以上続けてきて、なにが変わったのか。

べつに変わろうとおもってしたことではないけど、変わったことはあります。

あまり悩まなくなった。

 

これはとてもありがたいことで、パニック発作の頻度も格段に減りました。

ていうか最近はまったく出ていません。

よかったよかった。

 

よかったけど、これの副作用のようなこともあります。

いろんなことに関心がなくなってきているのです。

これはウツっぽいそれとは全然ちがっていて、どういったらいいのか一種の達観ぽい感じというか、「こころの粘度」のようなものが減っている。

「まあそんなに躍起にならなくていいんじゃないの。ゆっくりいきましょうや」

的な感じで、決して面倒であるとか厭世的になったとかではありません。

否定的な感じがあるわけではないのです。気分もあかるい。

かなり心地の良い立ち位置ではあるので、これはこれでいいのだ、と思ったりします。

 

しかしよくよく自分に聞いてみたら、

「それはちがうぞ」

ともいう。

まだ早すぎるのではないか、と。

 

「禅」は、現代風にいえばマインドフルネスなのだという説が一般的のようですが、ぼくはこれはたぶん違うのだろうと思います。

禅のなかにマインドフルネスは含まれるとは思うけど、きっとそれだけではない。

おそらく人間性の陶冶ということも禅には含まれていると思うのであります。

だからいろんな面倒くさいこと、つまり各種煩悩から距離を置き心の安寧を目指すというのは目的のひとつではあったとしてもおそらく究極目標ではないのではないか。

迷いがなければ悟りはないだろうし、迷うからこそ悟れるともいえる。

だから禅では「悟ろうとするな」「悟りにゴールなどない」というのではないか。

迷い悩むという人間らしい情動から逃げるのではなく、むしろこれを積極的にしっかりと手にとり、あじわっていくこともまた修行なのではないか。

 

なーんつってね。

まあようするに、もっと迷ってもいいんじゃねえのか、と思ったのであります。

まだまだ人生経験浅くケツの青いただのオッサンのくせして、えらそうにマインドフルネスとかやってんじゃねえぞ、なまいきな。

まだ若造みたいなもんなんだから、もっと悩んで迷って、暴れんかいや。

ニルヴァーナを目指すのは、まだ早いのではないか。

せっかく人間の世に生まれてきたのである、もっと人間のことを経験したほうが良いのではないか。

そのために生まれてきたんじゃないの?

たのしみも、くるしみも、両方しっかりと味わったほうがいいんじゃないのか。

 

思った。

「やりたいことを、やろう」

これをしたら欲に火がつくのではないかとか、煩悩が増えるのではないかとか、迷いを生むのではないかとか、そんなえらそうなことを考えたり言ったりする資格は、おれにはない。

そういうことを考えたり言ったりしてよいのは、悟りを得たひとだけである。

悟りの第一段階すら得ていないようなものが、なーにが「煩悩の抑止」じゃあ。

この、ばかちんが。

欲を抑え否定すれば、必然的にこの人の世を否定することになるんですよね。

人のくせに。

花が花らしく、イヌがイヌらしくあることが美しいように、人は人らしくしているほうが美しい。

だからもう、いちいちブレーキ踏むのはよそうと思う。

 

坐禅はまだ、続けるけどね。

あたまがラクになるから。

 

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