「文系バカが日本をダメにする」という話をたまに聞きますけれども、気がついた。
文系が日本をダメにするのではなく、「文系・理系という分割した認識」が日本をダメにしてしまうのではないか。
そもそもの話として英語には文系・理系という言葉はないのだそうです。
理系は英語で「Science(サイエンス)」で、文系もまた英語で「Science(サイエンス)」だからです。
両方とも、サイエンスだったのでありました。
もしかしたら文系理系というのは日本独自の用語なのかもしれません。
おそらく学校教育の都合上便宜的に定められた用語なのでしょう。
じつは、文系も理系も、サイエンス。
Webデザインという仕事柄、これはとてもよく理解ができます。
一般的に、
理系 = 論理的
文系 = 非論理的
というようなイメージがあります。
たとえば「コンピュータープログラム」はまさに「理系」の分野と思われがち。
いっぽう「デザイン」となると、これは「文系」のように思われがちです。
つまりプログラムは論理的で、デザインは非論理的である、というわけです。
とんでもない!
じつはデザインというのは「ゴリゴリに論理的」なのでありますね。
むしろプログラムよりも論理的でないといけないかもしれないのです。
なぜメインカラーに「青」を使ったのか。
そしてその「青」の面積の理由は、なにか。
このアイコンの意図することはなにか。
線の太さの意味は?
そういったことを完全に説明できないといけません。
「かわいかったから・・・」「かっこいいから・・・」という理由だけでは「デザイン」にはならないのですね。
どうしてこのデザインなの?
って聞かれて、
「えー、だってかわいいじゃん〜〜」
とか言ったらディレクターに首を締められます。
ぼくはプログラマーさんとたまに一緒に仕事を組むことがありますが、はっきり言ってプログラマーさんのほうが「非論理的」であることがよくあります。
まずデザインということに一切関心がなく、とにかく設計通りに動けばそれで満足、という人がけっこう多いのでありますね。
「誰が使うのか」ということに、関心がなさすぎるのであります。
だからへんなところに見えにくいボタンをつけていたり、めちゃくちゃ狭い枠に入力させようとしたりします。
こんなもん、だれが使えるねん!
しかし彼らは、そういったことはぜんぜん気にしません。
「言われるとおりに作ったし、ちゃんと動いている。なにがわるいのか」
これは悪態をついているわけではなく、ほんとうにそう思っていたりするので厄介です。
つまり彼らは「プログラム言語的には論理的」ではあるけれど「ユーザーインターフェイス的には非論理的」なのでありました。
これは良くないということでWebデザインの世界では「UX設計」ということが最近うるさく言われるようになりました。
理系のひとは文系をバカにするし、文系のひとは理系をバカにする。
そんな相反の世界があったりします。
ITの世界では、プログラマーはデザイナーをバカにして、デザイナーはプログラマーをバカにする。
これは本当はちゃんちゃらおかしいのですが、どうも相容れないところがあるようなのですね。
とくに日本ではその傾向が強いらしい。
文系の学問としては政治や法律、文学などがあります。
じつは政治も、法律も、文学も論理的なのですよね。
とくに文学というのは「言語」をマンキンで扱うものなので、最も論理的といえるかもしれません。
名文を書く人には意外と医者や科学者が多かったりもします。
なのにどういうわけか「文学部」というのを非論理的だと考えている理系のひとはわりと多い。
文章を書くのが苦手なことについて「理系なもので・・・」なとどいう、まったく「非論理的な」言い訳をするひともいる。
文系のひとでさえ「わたしは文系なので・・・」ということを、非論理的なことの言い訳にしている人も多かったりする。
うそつけ。
どっちも「サイエンス」だから「論理的ではない」「直感的である」ということは、ありえない。
「なんか、いいな」を言語化する、法則化・公式化するのがサイエンス。
なんかいいな、を、なんかいいな、のままで飲み込んでしまうのはサイエンスではない。
だから「文系」ですら、ないのでありますね。
文系バカ、理系バカではなく、シンプルな「バカ」なのでありました。
まあ、それはそれで大変に良いことなのではありますが。
理系・文系というのは、あえていえば「世界観」あるいは「世界の認識のしかた」の名称なのかもしれないですね。
理系はいわば「トップダウン方式」で世界を認識し、文系は「ボトムアップ方式」で世界を認識していく。
この場合の「トップ」は「構造」で、「ボトム」は「認知」。
全体構造から現象の法則性を見出していく方式と、個々人の認知から宇宙構造の法則性を見出していくという、スタート地点の違いということなのかもしれない。
理系のひとこそ意外と非論理的なオカルトにハマっていってしまうというのも、そういうことなのかもしれません。
オカルトというのは、じつはたいへんに理系的です。
考え方がトップダウン式なのですよね。
個々人の運・不運は、神や法則などの「宇宙構造」の影響である、と考える。
人間同士の複雑な「因果・機縁」による相互影響よりも、偉大なる宇宙法則のほうが影響が強い、と考えるのです。
人間同士の複雑な「因果・機縁」による相互影響が世界全体、ひいては宇宙の動きにさえ影響を与えているとも考える方向性はいわば仏教的でもあり、文系的ともいえるのかもしれません。
しかしどちらも「論理的」ですし、どっちが合っていてどっちが間違えているとかいう話でもない。
また理系のひとはオタクっぽくなる傾向も強いようです。
それは「人同士の機縁」には関心がありまりなく「構造下の事象そのもの」のほうに関心が強いからかもしれません。
だからある意味理系というのは「精神的根気が足らない」のかもしれません。
いくら高邁な理論を述べたところで人間同士の機縁の複雑さには及びません。
これを理解しようとするにはものすごい精神的パワー、あるいはそれを飲み込む度量が必要です。
ぼく自身体調が悪かったり、精神的なパワーが落ちているときには理系っぽくなります。
全体構造の法則性を利用して末端事象の解決を試みようとする。
そっちのほうがアルゴリズム的に良いのではないか、と考えてしまうのです。
そして人と関わることをとてもウザく感じてきます。
つまり、サボろう、逃げようとしてしまう。
いっぽう元気にあふれているときは数え切れないほどある末端事象の相互影響の可能性を考えることがちっとも苦痛ではないし、それを飲み込むことさえも可能になる。
人間関係をうざいとは一切思わなくなりますし、むしろそれが面白いとさえ思う。
しかしこれもべつにオタクがわるいということでもないし、人間関係に多大な関心を寄せていることが良いということでもないです。
ということに気がついたので、ぼくは今後、
「ぼくは文系なので・・・」ということを言い訳にしないようにしようと思いました。
文系だから論理的なことがわからないのではない。
バカだからよくわからないだけ。
だからそのへんな装飾語ぬきに、
「バカなで、わかりません」
って、胸を張って正直に言うことにしよう。
バカなのも、ちーとも悪いことではない。
ていうか「ほんとうに複雑なこと」を理解するためには、かなりバカでないとできない。
アタマなどという論理演算と情報結合しかできない非力な小型演算装置より、非論理演算および経験外情報の取得・結合さえ可能な、ハラという巨大な「虚空演算装置」をつかうほうが、最も複雑なことを理解するのには向いている。
虚空演算装置を使うためには、バカであることが必須条件である。
だから理系よりも、文系よりも、じつはバカのほうが賢い。
なかなかバカになれないので、なかなか賢くなれないのだなあ。