Google症あるいはサイバー心気症

「サーバー心気症」なることばがあるそうです。

「Google症」とも言ったりするそう。

https://matome.naver.jp/odai/2138128922161467501

サイバー心気症はGoogleなどの検索エンジンで自分の病状などの不安を検索し、検索結果から自分の不安をさらに増大させ、まるで依存しているかのように検索をし続けてしまうというものです。

 

ええと。

ええと、ですなあ、

 

まんま俺じゃねーかー!!

 

まあ、「ついこの間までの」という接頭辞がつきますが。

 

感じるいろんな症状が気になって、それをいちいちGoogle検索してしまうのですね。

そしらたいろんな怖い病名が出てくる。

心筋梗塞とか脳溢血とかくも膜下とか。

あるいはメニエールとかバセドーとか、あんまり聞いたこと無い病名まで出てくる。

自分の症状を検索すると、だいたいのばあい、何らかのデカい病気にヒットします。

それで「わたしもそういう病気なんじゃないか」などと疑ってしまうのですね。

 

ひどい人になると、それで病院に行ってちがう病名を告げられたら、

「そんなわけない! この症状は○○病のはずだ!」

「その治療法はネットで調べたのとはちがう! それは効かないのではないか」

なんていう反応をするそうです。

 

こういうのを話として聞くと、あははは、ケッタイな人やなあ、っていうので終わる。

しかし自分自身を振り返ってみたら、どうだ。

お医者さんに楯突くことこそないけれど、ネットで調べた症状と合致したりすると、

「ううっ。おれは心臓病なのではないか・・・」

などと、本気で悩んだりしていたのでした。

 

ここで問題なのは「そんなわけはない」とは、確実には言い切れないことなんですよね。

ただの被害妄想と違う点は、ここにある。

だれしも重い病気にかかる可能性はあるのです。

ネットで調べた症状が自分のそれと合致していた場合、ほんとうにその病気だという可能性は決してゼロではない。

自覚症状があるということは、なんらかの不具合を抱えている可能性は確かにある。

いわば「説得力のある勘違い」をしている可能性があって、それが「当たって」いる場合は早期発見となり良いこともあるかもしれない。

でも問題は「外れている」場合。

ただの取り越し苦労では、済まないのですよね。

笑えないほど深刻になって、疑念と不安の牢獄に閉じ込められ非常につらい生活を送るハメになる。

場合によってはこれが原因でパニック発作が連発する場合もあります。

 

なにやってんだよ、ばかだなあ。

なんて、笑うのはかんたんです。

でもそうなってしまう可能性は誰にでもある。

不安というのはとても強いエネルギーで、ひとの意識の矛先を完全に固定してしまう。

だからひとたびこころを踏み外してしまったら、まるで薬物の中毒者のように「病気情報の収集」を日々重ねていくことになる。

 

治す方法は、ひとつだけあるのですよね。

ネット絶ち?

いや、そこまでしなくてもいい。

「好きなことを見つける」ということなのですね。

 

寝る時間を除き、あと仕事したり家事をしたりなどの時間も差っ引いたら、1日というのは意外と短い。

病気に関する情報収集というのは、じつは「空き時間」でやっている。

その空き時間を趣味などの好きなことで埋めていってしまうのですね。

映画が好きなら、病気のことを検索するのではなく、映画の情報を調べる。

ぼくの場合は、最近登山について調べています。

「調べる」という行為を不安除去のために使うのではなく「すきなことの情報収集」のために使う。

これはいわば、ネットの本来的な使い方でもあります。

行動の内容を、上書きしていく。

そうしたらもう、病気のことなんて調べているヒマはなくなって、気がついたら調子がわるくても病気のことなんかあまり調べなくなっていく。

 

ぼくはけっこう重篤な「サイバー心気症」だっかたもしれませんが、これは案外すぐに治るようです。

原因はその人の性格や行動原理なんかではなく、単純に「情報」だったのです。

情報が入ってこなければ、サイバー心気症という状態はもう存在できなくなる。

サイバー心気症とは情報を栄養としているまさに「サイバー生命体」のようですね。

兵糧攻めに弱い。

 

むしろ「ネット絶ち」などというドラスティックな方法をとるのは、かえって逆効果かもしれませんね。

そんなことをすると「調べたいっ!」という禁断症状が強くなってしまい、べつのストレスを抱えてしまうかもしれない。

ネットは使ってもよいが、病気以外の、たのしいことを調べるように努力する。

まだこっちのほうが、入りやすそうですものね。

 

ネットの「こわい面」こそ、これだなあと思いました。

とてもかんたんに、調べることができてしまう。

その情報が合っているのか間違っているのかなんていうのは、じつはそれほど大きな問題ではない。

調べる→情報が見つかるという「ユニット」が容易に生成されるところに、最も大きな問題がある。

ユニットが容易に生成されるということは、得られる情報も大量になるということ。

情報が増えれば「選択する」「判断する」という行為が必要になる。

情報が多ければ多いほど選択し、判断する回数も増えていく。

そうなると、こころは必ず病む。

選ぶ、探す、決めるというのは、人間のこころにもっとも大きな負荷を与える。

 

ネットがなかったころ、調べるというのはとてつもなく大変なことでした。

一大事業といっても過言ではありません。

図書館に行く、新聞をあたる、本屋に行く、知っている人に聞く。

チャンネルは結局それぐらいしかなくて、そのチャンネルを使って物事を調べるためには移動や調整が必要で、多大な気力と手間と時間、そしてお金がかかってしまう。

しかしそこまでして得られる情報は意外と微々たるもので当たり外れも多く、最終的な情報量などたかが知れていた。

それでもそうして得られた微々たる情報に頼るしかなかった。

知らないことが多いので、知っていることに注力するしかなかった。

新しいことを知るためには多大な労力がかかるから、情報を得ることにはとても慎重だった。

すくない情報のなかで、なんとかやっていた。

だから結局、こころはあまり、疲れなかった。

疲れるほどの情報がなかったから。

 

ネットが悪い、のではないんですよね。

これも進化の一過程で、良い面には悪い面がまるで恋人のようにかならず付きそう。

ネット上の情報の真偽を見極める目が必要だと言うひともいるが、これは安直すぎます。

情報の真偽を見極めることが必要なのはネットに限ったことではないです。

「どのようなことにでも」それは必要。

ネットに限って言えば、もっとだいじなことがある。

「ユニット制限」。

調べる→答えを得る、この膨大なユニットの数を制限する必要がある。

正しい、正しくないは、そのあとである。

膨大な情報でココロが疲れてしまえば、正常な判断もできなくなる。

 

ネットをうまく使う秘訣は「あんまり使わないこと」。

結局は、これに尽きるのですよね。

なにごとも、ほどほどに。

 

 

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