ううー、泣いちった。
ええトシこいたオッサンのくせに、ふぇぇ、泣いちったようー。
映画「三十四丁目の奇跡」。
1947年公開だからもう70年以上前の映画なのですが。
サンタさんはいるのか、いないのか問題。
まあ「いない」に決まっているんだけれども、でもほんとうは、みんないてほしいとも思ってる。
そんなテーマのハートフルなやさしい映画で、もうトシなのかなあ、泣いてしまいましたね。
幸せだから笑顔になるのではなく、笑顔そのものが幸福である。
そんなことも思ったりして、これは坐禅をするから悟れるのではなく坐禅そのものが悟りである、というのにとても似ているなあ、とも思ったりしました。
坐禅をはじめてもうすぐ170日。
100日めあたりで、気がついたことがあります。
「妄想である」
ぼくにはパニック障害という持病があるけれど、この症状はつまりは「妄想」なのですよね。
どのような屁理屈をこねまわしても、妄想であることには変わりがない。
ということは、ぼくは妄想から離れなくてはならない。
そしてもうひとつ気がついたのは、「わたしは狂っている」ということでした。
それまでは、たしかに神経的な異常はあるかもしれないが認知は狂っていないと信じていました。
つまりアタマは正常である、と。
しかしほんとうは、ぼくは狂っていた。
明らかに、狂っていた。
ないものを、ある、と認識するのは、狂っているのです。
妄想にとらわれ、ありもしない未来を夢想し、それに囚われている。
いかような屁理屈をこねまわしても、いくら言い訳をしても、これは狂っている。
だから狂いは正さなくてはならない。
……と、ここまで行ってそれでも坐禅を続けていくうちに、ふと強い確信のようなものを感じた。
「この世界は進化への絶対的な一方通行である」
「不動ということは前進することである」
「欲望こそが摂理である」
これはつまり、それまでのぼくの指向性の逆転であります。
禅にかぶれ、世界に逆行しようとし、欲望や反応を否定する方向へ向かいつつあった。
しかしこれはあくまで「あたま」で考えていたこと。
進化とはなにか、前進とはなにか。
これすべて、じつは「妄想」から生まれるのですよね。
そして妄想は、欲から生まれる。
つまり欲なくして妄想なし、妄想なくして進化なし。
妄想を否定し、欲を否定するということは自分自身もこの世界も、いのちそのものさえも否定することになる。
「とらわれない」ということと「否定する」ということはちがう。
ぼくは否定しつつも、とらわれていた。
そんな息苦しい難しいことをせず「肯定しつつもとらわれない」で、良かったではないか。
……というような非常に気色のわるい、うすぐらい、くそまじめな結論に至ってやっと目がさめた。
そのままで、ええんや。
変わろうとせんでも、変えようとせんでも、ええ。
変えたくなくても変わる、変えないことは絶対できへん、なのになんでわざわざ変えようとするねんな。あほとちがうんか。
だからもう、そんなことはもう、どっちゃでもええのでありますね。
妄想もまた、よし。
妄想があるから、夢がある。
いきいきするためには、夢も必要。
妄想があるから、夢があるから、進化する。
現実的なことばかり考えて無駄なことをせずにいたら、こころから光が消える。
まっくらな世界を手探りで進まなくてはならなくなる。
ふしぎなもので、そんなことを思うようになったらこの映画に出会った。
ほんのちょっと前のぼくはこの映画に出てくるドリスみたいな現実主義者でした。
だからもしその時にこの映画をみても「子どもに夢を持たせるのは教育上良くない」と
ドリスとまったく同じようなことを思ったでしょう。
そしたらたぶんこの映画はちっとも面白くないだろうから、記憶にも残らなかったと思います。
無邪気ないきものを喜ばせることができないような者に、いったい何ができるというのか。
ガキひとり笑顔にできないような者は、自分自身も笑顔にできない。
事実なんぞ、現実なんぞ、真理なんぞ、くそくらえじゃ。
もともとそんなもの、ないんだからなあ。
あるように見えているだけ。
現実主義というのも結局は「現実という妄想」の奴隷にすぎないんですよね。
夢も妄想もいのちそのものなんだから、いのちと同じぐらいの価値がある。
それを否定してただなんて、ぼくもなかなかの、いけすかない傲慢やろうでありますね。