パニック障害から外出恐怖になり、引きこもりがちになってしまったのには「インターネット」も深く関係しているように思うのです。
もともとは家でじっとしていることは苦手なタイプで、机にしがみついているなんて最大の苦痛のひとつでした。
旅行はとても好きでした。
どうして旅行が好きになったかというと、旅先にこそ「感動」があったから。
その感動は「なんかいいなあ」なんていうショボイものじゃなくて、打ち震え、なみだが出てくるほどの強烈なもの。
停電したネパール・カトマンドゥの夜空に見た満天の星空。
ハワイのダイヤモンドヘッドで寝転んで見た満天の星空。
インド早朝のガンジス河から登る朝日、タージ・マハール。
チトワン国立公園で見た100頭以上の水牛の川渡り、ゾウの群れ。
高野山の杉の木立の木漏れ陽と、夜中の声明、梵字、両界曼荼羅。
真夜中に淡路島の山奥で迷子になったときに見た満天の星空。
こうしてみると、わりと「星空」が多い。
そして自然に関するものが多いなあ。
ネットでももちろん、そういったものは探すことができます。
しかしネットで探し当てたそれらの写真は一種の「癒やし系」に分類されるものになります。
忙しい日常から開放してくれるような、やさしい映像。
ちがう。
実物は決して「癒やし系」なんかではなかったです。
暴力的とさえいえるほどの圧倒的な衝撃がある。
もういっそ、怖い。
「癒やされるぅ〜〜」とは、むしろ真逆の感情がそこでは生まれる。
癒やしというのは、日常から非日常への一時的な逃避行といえます。
あくまで軸足は日常にある。
しかし実物の巨大な自然の営みを見て精神に刺激が至ったとき、むしろ日常のほうが空想で取るに足らない一時的のようなものに思えてくる。
ほんとうは軸足は大自然のほうにあって、一時的に日常に旅しているだけなのではないか。
このまるで夢のような景色のほうこそが現実で、日常の生活のほうがむしろ夢なのではないか。
そんな不可思議な感覚が芽生えます。
つまり、ぼくはかつて「外」へ、それを探しに行っていたのです。
旅行が好きなのもそれが理由だった。
べつに癒やされたいわけではなかった、鈍器で殴られるほどの感動が欲しかった。
インスタでみんなに「いいね」と言ってほしいわけではなかった。
極度の衝撃の前にはおしゃれなカフェとか、すてきなアーティストとか、イケてるお洋服とか、食べ歩きとか、スポーツイベントとか、そういったものがすべて「矮小化」してしまう。
いいことはいい、わかいいし、かっこいいし、気持ちいい。
それはそれでもちろん素敵だけど、比べてしまったら、もう……。
はなくそである。
ネットで行きたい場所を検索すると、ほとんど出てきます。写真や動画つきで。
ブログの旅行記などもあり、かなり詳しく紹介してくれていることもある。
するとなんだか、もう「行った」ような感覚になってしまうんですね。
もういいかな、って思ってしまう。
だからよけいに、外へ出るのを躊躇してしまう。
もうここに情報があるのに、どうして行く必要があるのか、と。
ネットが普及する前は、ほんとうに情報がなかった。
インドに行こう、そう思った時、ぼくの手元にあったのは「地球の歩き方」一冊だけでした。
それ以外にはほとんど情報らしい情報がなかった。
探そうにも探せなかったのです。
だからこそ、さらに「行きたい!」と思った。
情報チラリズム。
情報は少ないほうが、情欲や情熱を掻き立てられる。
無修正おまんこおっぴろげー、はもう、つまらないのであります。
チラっと見えるからこそ、いや、見えそうで結局見えないからこそ、想像力は拡張し、あちこちがギンギンに怒張する。
探している情報が数だけでもけっこう集まってしまったら、もうこころが燃えないのです。
とくに楽して集まってしまったら、目指しているゴールの価値までが下がってしまう。
ま、いっか。こんなもんだな。
満足してしまう。
ネットを使えば使うほど、この世はつまらないものに見えてきてしまうのです。
知らないからこそ、わくわくする。
そして最も肝心なことは、文字や写真、映像で見たものと実物は、何もかもがちがう。
とくに自然が相手の場合まず「大きさ」がちがう。
あたまがおかしくなってしまうのではないかというほどの巨大さの前には、いろんな雑念が吹っ飛ぶ。
ネットは使い方によっては、想像力も、こころの熱量も、極度に喪失させてしまうのですね。
これはたいへん、残念なことであります。
ほんとうのことを知らないまま、知ったような気になる。
はだかの王様だ。
そしてこの世はくだらない、などと考えてしまう。
あたりまえだ。
ネットや本で得た情報は、おのれのこころの中でイメージに変換されるから。
未体験情報はじぶん自身の枠を超えることができないのであります。
くだらない人間こそ、この世界をくだらないという。
ほしを、さがしにいこう。
ディスプレイの中にも、本のなかにも、にせもののほししか、いないのですもの。
その写真は、その動画は、ぜんぶぜんぶ、にせものだ。
ほんものに、会いにいこう。
もう 30年とか 前
山中泊の 登山 行きました。
夜
はじめて みた 「満天の星空」
きれい なんて ものじゃなかった。
掃いて捨てるほどの って 言い方あるけれど。
ひとつ ひとつ 巨大 で。
ぎらついて。
それ が
うじゃうじゃ。
率直な 感覚 感想 は
「吐き気する」 だったの
いまでも 強烈に 記憶に あります …
その 一度だけ だけれど。そんな 星空 みたの。˘ ˘ゝ
いいなあ!
「吐き気がするほどの星空」。
ほんとうは、今住んでいる場所の真上にも、それはあるんですけれどね。
まちなかの余計な光で、全部消えてしまうんですよね。
ああいうのを一回見てしまうと、ある意味中毒っていうか、生半可なものではもう感動できなくなってしまうんですよね。
感動の「皮」が分厚くなってしまうっていうか。
いずれ、熊野古道でキャンプしようって思っています。