「気合」を使う資格

……ボ〜ッ……。

あーあ。

なーんかそのう……。

あのね、はは、……。

(鼻くそほじほじ)

 

春って、こんな感じによくなりますね。

やる気がないといえば、まあそうなんだけど、べつにウツとかそんな病的なアレではないです。

どっちかっていうと心地よさもあって、機嫌はすこぶる良いのであります。

しかしどうにもカラダが重く、ちからが入りにくい。

ていうか、入れたくない。

ひとことでいうと、「気合が入らない」。

 

昔は春が、大嫌いでした。

茫洋漠然とアタマのなかに靄がかかったようで、どうにもしゃきっとしない、生産性も下がる。

そこで自己ビンタを繰り出したりして、

「っしゃあああっ! 気合だ気合だ気合だー!!!!」

などと叫んだりしておりました。

お尻をバンバン叩きまくるというのも、効果があります。

そうすると一時的に「シャキッ!」となるんですよね。

ぼくはこれを、多用しておりました。

 

しかーし!

この「気合」、多用しすぎるとヤバいんだそうです。

ウツになる。

なぜか。

 

「生理的覚醒による優勢反応の強化」

というのがあるそうなんですね。心理学で。

日本語に翻訳すれば(日本語だけどね)、「からだに刺激を与えると、気持ちの中で優先順位が高いものが強化される」ということです。

仕事しなくちゃいけないけど、ほんとはゴロゴロしていたい。

「仕事」と「ゴロゴロ」をテンビンにかけたら、まあふつうの人ならば「仕事」のほうが優先順位は高くなるわけです。

「ねばならぬ」のほうを優先するのは、まあふつうです。

だからバチーンと自己ビンタをしたりすると、「ねばならぬ」のほうが強化される、ということです。

ま、わかる。

心理学なんていう難しいこといわなくても、だれだってやってます。

これは痛みだけでなく、濃いコーヒーを飲むとか激辛のものを食べるとかそういうのでも同じ。

 

これで済むのなら、そうかやっぱビンタで気合入れるのっていいんだ、正しいんだ、気合っていいんだ、よかったんだ、っていう話で終わる。

でも残念ながら、人間のココロちうもんは、そんなに簡単でもない。

さきほど「ねばならぬ」を優先したのは、あくまで表面的な部分においてです。

したいことより、すべきことを優先しなければならないという高等な「制御系」において判断しているにすぎない。

実際には「ゴロゴロしてえ!」という気持ちは決して弱いわけではなかったりする。

正直なとろこでいくと、じつはそっちのほうが強い場合さえある。

すると自己ビンタを繰り出したことにより、かえって「ゴロゴロしてえ!」という気持ちが強化される場合があるんですね。

つまり、好き嫌いが強化される。

好きなことはより好きに、嫌いなことはより嫌いになっていく。

 

だからへたに気合を入れたら、こころの中で「分離」が起こってしまうんですね。

相反する気持ちのベクトルが、さらに強化されてしまう。

しかし「ねばならぬ」を「やらない」わけにはいかないので、結局はもう一方の気持ちを「抑圧する」ということになってしまう。

これを繰り返していると、しまいにはウツになってしまう。

 

このことはべつに心理学なんていう難しい言説によらずとも、普段の生活でもよくあることですね。

「気合」を使ってなにごとかを成し遂げたら、そのあとに「反動」がくるんです。

「ねばならぬ」が終わったそのあと、やりたかったことをまとめて一気にやろうとする、とても強い衝動が起こる。

しかしこれも抑制してずっと気合を入れ続けていると、最後には「パーン!」とバクハツします。

あたまや神経がおかしくなったり、人によっては内臓を痛めたりする。

病気が、うまれる。

 

「気合とは何か」

このことをきちんと考えていない時代があったんですよね。

まるでヒロポンかなにかの薬物のように、疲れたり気分が下がったときに多用していた。

気合を多用しすぎるとどうなるかということを、ほとんどまったく考えていなかったのです。

ま、それはぼくのことでありますが。

 

ヨーガでは、気合というのは一種の「念力」と考えられているそうです。

そしてこの念力はみぞおちとおへその間にあるチャクラ「マニプーラ」から発せられると説きます。

位置的には、胃のあたり。

念力を多用しすぎるとこのマニプーラのエネルギーが弱り、あるいは暴動し、これの管理下にある諸器官に病が発生する。

胃の異常、心臓の異常、呼吸の異常、太陽神経叢の異常、肝臓、膵臓の不具合など。

精神としては前向きでのびやかな指向性や、あかるい思念などが欠如していって、くらい、よわい心になっていく。

臆病になり、小心になり、些細なことで動じやすくなり、感情の起伏が強くなる。

マニプーラのパワーが低下するとこれを本能的に守るような姿勢をとりがちになって、からだを丸めるようになる。

つまり、猫背や亀背になっていく。

そうすると全身のプラーナの流れが阻害され、さまざまな場所に問題が起き始める。

……ということらしい。

 

気合はいいのか、わるいのか。

そんな表面的な二元論で理屈をこねまわす前に、大事なことがありますね。

こころの整理・整頓。

「いま、なぜ、気合が必要なのか」

どうして、やる気が出ないのか。

いまわたしはなにを望んでいて、どうすればそれは叶うのか。

その「ねばならぬ」は、ほんとうに、今すべきことなのか。

その「したいこと」は、ほんとうに、したいことなのか。

こころの炎症や条件反射による渇望なのか、それとも深い中心から湧き出ている本質的な望みなのか。

そのあたりを「整理・整頓」する必要がある。

また、日頃から気合を多用しなければならない場合は、自分自身の弱さ強さだけではなく、生活や労働のシステムそのもに欠陥があるのかもしれないということもきちんと精査する必要がある。

 

つまり、まずは「落ち着く」必要がある、ということなのでしょうね。

目標達成に依存し、頓服のように発作的に気合を使うのではなく、落ち着いて観察し、必要なときにこそ、気合をつかう。

念力のようなものを軽々しく使うべきではないし、頼るべきでもない。

気合というのは「いざというとき」のために、とっておく必要がある。

いま、ほんとうに「いざ」なのか。

 

気合は使いすぎても弱まるし、まったく使わなくても弱くなっていく。

使うからこそ循環し増えていき、けちって溜め込んでいては腐って停滞する。

しかし使ってばかりいると、それに依存しはじめる。

運動とおなじで「適度」が必要なんでしょうね。

そして気合とは一種の念力だ、ということをしっかり自覚して、軽々しく使わないように心得ることも大事なんだと思います。

日頃から刃物を振りまわすようなやつは、ただのきちがいである。

落ち着きを失い、こころの整理整頓ができておらず、浮ついた願望と目先の目標達成にしか目が行かないような者には気合を使う資格などない、ということでありましょう。

 

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