創価学会の、いいところ

どんなことにも、いいところもあればわるいところもある。

極悪人にさえやさしい一面はある。

善と悪とは1枚のコインの裏表である。

 

母親がかつて創価学会で、幼少のころに受けたその教義によって抑圧されていたところがあります。

とくに「四箇格言」ということが、強く引っかかっていました。

さてこの件については、もうほとんど脱出できました。

脱出成功、であります。

 

それはいいとして、でも気がついた。

創価学会の呪縛は解けたとして、さてでは、ぼくの心に「否定的感情」は残ってはいないか。

「創価学会は悪である」「きらいだ」というような思考はないか。

バカにしていないか、蔑んではいないか。

もしこれが残っていたら、「脱出」は完全ではない。

それはただ反抗しただけである、逃げただけである。

ほんとうの脱出は、「飲み込んでしまう」ことである。

 

ふと思ったんですよね。

創価学会というのは、そのエキセントリックで強引な勧誘活動によって嫌われているのは確かです。

そのことによって、一切浮上してこない純粋な課題がある。

「創価学会はなぜ普及をしたのか」

この問に対する客観的回答は、すくなくともネット上では皆無である。

創価学会のどこが悪いのか、という話ばっかりだ。

信者による回答さえ見つからなくて、どういった功徳があるかとか、教学についての屁理屈、だれかれを論破してやったなどという血気盛んな話ばっかりで、なぜ普及したのかという話が見つからない。

 

創価学会の信者数は水増しである、という噂もあります。

でも一時期非常に多くの信者数を獲得したことは、間違いありません。

なぜ、普及したのか。

普及した理由が、きっとあるはずである。

 

思うにやはり、そこには「魅力」があったのではないか。

アンチ創価学会のひとからすれば、「あれだけ強引な勧誘をしていたんだから、普及するのも当然だ」というかもしれない。

でもそれは、完全に間違えている。

強引であれば会員が増えるというのであれば、商売でもみんな困らないです。

いくら強引であっても、仮にそこにウソがあったとしても、普及するというのはほんとうに難しいことなのです。

ぼくは広告をやっているので、これは身にしみてわかります。

強引とか、組織力とか、口がうまいとか、騙したとか、ノルマとか、しつこいとか、そんな甘っちょろいことだけではそうそう広まったりはしないのです。

「心」が動かなければ、絶対にどのようなことも広がらないのです。

 

かすかに、記憶があります。

子供のころ、どこで、だれに聞いたのか忘れましたが、創価学会のひとがこんなことを言っていた。

 

「信心は一人前、仕事は三人前」

 

つまり信仰については、ふつうにやっていればよい。

それよりも普段の仕事こそ、ひとの3倍やるつもりで頑張りなさいというのです。

当時、ガキながら、いいこというなあと思いました。

 

そこで思ったのです。

創価学会と言うとその矛盾した教義に注目が行きがちです。

しかし考えてみれば、矛盾のない宗教なんかこの世にありません。

創価学会にはかつて、じっさいに「すばらしい人たち」がたくさんいたのではないか。

 

チベットのことわざにあります。

「ひとの半分食べて、ひとの二倍働き、ひとの三倍笑いなさい」

これは少食を推奨しているというよりも、我欲は抑えて、ひとのために身を尽くし、あかるくしていなさいという意味です。

「信心は一人前、仕事は三人前」

とよく似ています。

これもおそらく、ひとの3倍の時間を働けという意味ではなくて、ひとのために尽くしなさいということが真義なのだと思います。

 

最近、創価学会のひとたちがとても攻撃されているのは、もしかしたらここなんじゃないか、と思いました。

もともとは純粋な人道的団体だったのだと思います。

仏教や人道ということについて、真剣に考えるひとたちがたくさんいたのでしょう。

そうでなければ、そうそう「信心は一人前、仕事は三人前」なんていう言葉は出てこないと思います。

そんな求心力のある「すてきな人たち」に心打たれ、ひとがこぞっていったのではないか。

 

しかし最近は他宗の攻撃ばかりして、創価学会に否定的なひとたちを嘲笑し、呪い、教義を理屈で理解しようとする人が増えていると思います。

「信心は一人前、仕事は三人前」どころか、それが逆転して、仕事をろくすっぽせずに教団活動ばかりに勤しむ人も増えているのではないでしょうか。

創価学会の人は仕事がよくできる、という話をまったく聞きません。

 

おそらく、当初は高邁で高度な理想があったのだと思います。

しかし時がたつにつれ、教団が巨大化していくにしたがって、「おかげ宗教」のようになってしまった。

「身読せよ(=アタマで考えるのではなく、身体と経験で考えよ)」ということを、とにかく題目をたくさんあげればそれでよいのだ、と解釈をする人も多いようです。

「折伏」という意味をきちんと理解しないまま、ウソをついてまで勧誘して回るひとも増えた。

折伏というのは、ほんらいそんなことではない。

もっと複雑な知の体系である。

じぶんのところの教義だけではなく、ほかの宗派の教義や世界の各種哲学や思想体系も根っこから理解していなければ、ほんとうの折伏なんてできない。

日蓮正宗のお寺のウェブサイトでさえ、大変浅く完全に誤った理解によって特定の宗派を論じ攻撃していることがあります。

内輪の理論だけを押し付けるのは折伏ではなく、ただの強姦である。

 

組織の肥大化によってレベルが低下していく。

こんなことは宗教に限らず、どんな団体でも起きることです。

まさに諸行無常、お釈迦様のいうとおりである。

国政に手を出そうとしたころから、崩壊が始まったのだと思います。

仏教というのは、自分からは権力に近づかないのが鉄則である。

しかるに「国立戒壇の設立」ということを曲解して、権力を握ろうとしはじめた。

人々のこころが動き、広宣流布によって国立戒壇が自然当然的に実現されるはずなのに、国政を掌握し「パワーで」「事業を」成し遂げようと考え始めた。

論理の跳躍である。理想の堕落である。

そんなことをするから、憧れる人がいなくなったんだ。

「こんなに素晴らしいひとたちがいる組織なら、私も入りたい」

そんな魅力ある組織ではなくなって、既存の会員を守ることと、攻撃してくるひとに牙をむくだけの、内向きの秘密結社に成り下がってしまった。

感動をもって人を動かすのではなく、パワーで人を動かすようになってしまった。

 

だから「創価学会がいい、わるい」っていうのは、よしておこうと思いました。

一時期、きっとすばらしい思想を持っていたのだと思います。

そして、いまだそのりっぱな思想を受け継いでいるひともいると思います。

宗教団体にとって重要なのは組織ではなくその魂ですからね。

それが少しでも残っているのなら、全体を十把一絡げで「だめだ」というのは、あまりに強引である。

創価学会にも、素晴らしい人はきっとたくさんいるはずです。

 

なにかを攻撃するということは、その対象と同じ次元にいるから可能です。

次元が変われば喧嘩する機会さえ与えられない。

だからぼくも、あれがわるい、これがわるいと、いちいち文句をたれるのはやめようと思います。

「飲み込んだ時」、ぼくは真に呪縛から開放される。

この呪縛は、創価学会に原因があるのではなく、わたしのこころに原因がある。

良いも、わるいも、結局は妄想の一種である。

創価学会は、創価学会である。

良い面もわるい面もある。

ただ、それだけ。

そして創価学会に入れ込むひとたちは、決してバカなのではない。

苦しみやかなしみを抱えているからこそ宗教に頼る。

そのようなひとたちについて、憐憫の情を持つことはあったとしても、決して侮蔑するべきではない。

ひとはみんな、なにかで苦しんでいるのである。明日は我が身である。お互い様である。

 

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