よく「日本は先進国である」とか「知的水準が高い」とか「清潔である」とかいいますね。
かと思えば、「日本って、本当はものすごく貧乏で、知的水準も低くて、国民の意識も低い、後進国なんじゃないんだろうかっていう気がしてきた。」というツイートに3.5万の「いいね」が集まったりするようです。
先日、風呂でヌボーっとしているときにフト気がついたのが「性格は存在しない」ということでした。
性格というのは、その人を「とりあえず」理解をするためのとっかかりというかヒントに過ぎないようなインデックスのようなもので、決してその人を説明するものではない。
そして神経質だの繊細だのといった特徴についても、じつは人間というのはほぼあらゆる特性を持っていて、とある条件下である種の傾向が強く出ているように見える、というだけに過ぎなかったりする。
つまり性格というのは幻想の一種なのであって、「存在している」とは言い難いものだったのでした。
「日本は……」っていうのも、まったく同じだと思いました。
厳密な統計をもとにそう言っているのであればまだマシだけど、結局ほとんどの場合、どこからか得た情報をもとに、妄想で集約し拡大解釈しているだけのことが多い。
日本人はムラ的な思想で横並び意識が強い。みたいなことを言うけれど、ほかの国だってそうだった。
なにも日本に限ったことではなく、これは人間の本能に関するものなのかもしれません。
日本人は清潔だ、というけれど、そんなことないです。
むしろ統計的には口内環境の清潔については日本人はかなりランクが低いそうです。
また「汚部屋」のような部屋に住むひともいて、掃除を1週間に1回しかしないという人もいる。
現実には、あまり清潔ではない人もかなり多い。
日本人は人の目を気にしすぎだ、とか言うこともあるけど、これだってよその国と同じです。
むしろ人目を気にしない人ばかりの国なんて存在しないかもしれません。
どこかで聞いたことや、部分的で体型化されていないメタ情報を頼りに、自己卑下したり、誇大妄想をしているだけのことがたいへん多いような気がする。
外国への評価も、同じです。
「中国は…」
「韓国は…」
などといって、新聞やテレビだけで得た体系化されていない部分情報だけをもってその国の特性を評価し、決定している。
これは人間の性格判断と同じ過ちを犯しているわけで、たしかにそこで切り取った事実はそうかもしれないが、そこから全体像を推理し存在という多次元立体を正確に再現するには、ぼくたちの脳があまりにも貧弱すぎる。
つまり、そんなことでは結局、なんにもわからない。
ネットでは韓国人を誹謗するような言説を流すひとが多いけど、実際には韓国には素晴らしい人も、ゲスなひともいます。
ぼくは以前、朝鮮王朝の王族の末裔に会ったことがあります。
日本で言えば、世が世であれば天皇陛下だったかもしれない人です。
そのひとはとても上品で、礼節を知り、静謐で、真摯なひとでした。そしてとても裕福でした。
こそっと、言ったのです。
「ほんとうはBMWやトヨタの車がほしいんですけどね。でも我が国の発展に少しでも寄与するために、ヒュンダイに乗ることにしています」
日本人であるぼくに気を使って言ったわけではなく、ほんとうにそう考えていたようです。
ぼくは、イギリス人というのは賢く、スマートで、紳士淑女ばかりだと考えてしました。
おそらく映画などの影響だと思います。
しかし酒場で一緒に飲んだ人と会って、ぼくはこの固定観念が崩壊しました。
話が自然保護の方向へ向かい、彼は言うのです。
「クジラのような知能のある動物を殺すなんて、日本人はどうかしている!」
「知能があると、殺してはいけないのですか」
「当然です」
「ではウシはどうですか。彼らも知能があります」
彼はしばらく黙って考えて、とうとう言ったのです。
「ウシに知能なんかない!」
いや、あるよ!
あいつヒトになついたりするし、知能も感情もある。
ああ、これ以上言ってもダメだな、と思いました。
結局彼もキリスト教というか、聖書のイデオロギーを使って反応しているだけだったのでした。
聖書にはクジラが登場して神の使いのような扱いがあるので、キリスト教圏ではクジラは聖なる動物という認識がけっこうあるのだそうです。
そこに「知能」という科学っぽいタグをひっつけて、それを利用して自己の主張を強化しているだけでした。つまらん男だ。
そういうことを言うのなら、それこそヴィーガンみたいになって、「動物は一切殺してはダメなんだ」のほうがまだ、説得力があります。
彼は「サイコロステーキ」をむしゃむしゃ食べながら、クジラを殺すことの罪悪性をいっしょうけんめい説いていました。
アメリカについてもやはり先進国のイメージがありますし、豊かで、文化的に日本より優れたところが多いとも思ったりします。
でも実際の統計でいくと貧富の差がとてもひどくて、また知的水準の格差もかなりえげつないらしい。
肥満が多いのは知的水準の低い貧困層に多いそうで、それはジャンクフードばっかり食べているからだそうです。
「ピザは小麦でできてる。だからおれは野菜を十分にとっている」
ということを冗談ではなく、本気で考えてるひとも多いのだそうです。
もちろんだからといって「韓国人はりっぱだ」とか「イギリス人やアメリカ人はアホだ」なんてことは思いませんよね。
「そういうヒトもいる」というだけのことです。
そしてその数が多いか少ないか、比率がどうかというのも栓のない話です。
そんなもの、統計のとりようがありません。
「個」があつまって「全体」を構成しているのは確かだけど、その「全体」を把握するには、人間の脳があまりにも貧弱すぎます。
もし仮に正確で確実な統計がとれたとしたら、それはもう人間の脳には扱えないものになると思う。
量子コンピューターで結論を叩き出したとしても、その結論を理解することさえ、人間にはできないのではないか。
その存在を理解するというのは、人間には「できない」ことかもしれない。
というかぼくたちは結局、なにひとつ理解なんかしていないのではないか。
無明である。
ひとの心と、国というのは、とても似ているなあと思いました。
「すべてを包含している」。
あらゆる存在は、包括的である。
一部だけを切り取ってそれですべてを理解したと思い込むのは、妄想以外の何ものでもありません。
心の場合は性格診断、国家の場合はマスコミの情報や統計情報が同じ役目を果たしています。
それはその存在を定義することも、説明することも、なんにもできていない。
「わかった気」にさせてくれるだけである。
だからぼくはもう、「あの国は……」とか「この国は……」「あのひとは……」とかいうことは、もういっさい、言わないようにしようと思いました。
恥ずかしすぎます。
日本は、日本をもって、日本である。
わたしは、わたしをもって、わたしである。
かれは、かれをもって、かれである。
あなたは、あなたをもって、あなたである。
その存在は、その存在をもって、その存在である。
人間に理解ができるのは、そこまでである。
構成要素をいちいち分解し、部品の多寡をもってその存在の優劣を判断したり、一部の部品から全体を夢想し評価するなど、まさに不毛である。ハゲである。
インデックスから物事を完全に理解したいのであれば、命を捨てる覚悟で学べ。
それでもできるかどうか怪しいところである。
それができないのなら、もう、黙っとれ。なにもするな。なにも考えるな。
「わかった気になっている」のは「わからない」よりも、格段にランクが低い。
わからないことはわからないままにしておくほうが、「まちがえていない」という点において、すこしだけリードしている。
わからないことはそのままにしておけば、あたまが疲れないので、いつも上機嫌でいられる。
この点においてもまた一歩、リードしている。