「最善」
「最勝」
このことに固執していたから、ぼくは「めくら」になっていたのかもしれない。
あることに気がついて、ずっと引っかかっていたことが花粉症の鼻水のようにジュルジュルっとトロケたのであります!
(たとえがキタナイかな)
母親が創価学会だったことも影響しているんでしょうかね、ぼくはずっと「いちばん正しいものごと」というようなものがあるのでは、と夢想をしていました。
創価学会や日蓮正宗は「うちの教えこそがいちばん正しいのであーる。ほかはみいーんな、せえーんぶ、間違っとるんであーる」と宣言するのです。
幼少のころからそういう考えに接していたから、なんだかこの世には「正しいこと」と「間違っていること」があるんだな、と思うようになった。
「いちばん正しい」と言われていることを「なるほどそうですか」と思えたなら、それはそれでもう解決なのであります。べつにかまわん。
でもふとしたときに「あれ? そうでもないんじゃないか?」ということに気がついてしまったら、もうワケわかんなくなるのであります。
疑いを持ってしまった瞬間に、それまで持っていたすべての軸が崩壊してしまって三界に家なし、の状態になってしまう。
それが正しいといわれていることに疑問は持ったものの、とはいえそれに変わる「正しいこと」を別に発見したわけではない。
だからもう、フワッフワのヘロッヘロになってしまうのであります。
なにが正しくて、なにが間違っているのが、もうまったくわからなくなってしまう。
そこで、ふと気がついたのです。
「なにが正しくてなにが間違っているのかわからない」
これって「正常」なのではないか、と。
お釈迦様ではないんである。わからないのが正解なのである。
だからこそ、正しいことを探そうぜっていうのが修行なのではないか。
ひとはみんな、ちがう。
同じひとなんていない。
ということは「正しい」っていうのも、その人の数だけあることになる。
おそらく創価学会に属しているひとたちだって、それぞれ解釈が微妙に違うと思うのです。
Aさんが思っていることと、Bさんが思っていることは、きっとすこし、違うはずである。
人間には多様性がある。
この多様性を完全否定して、それは間違っとーる、違うんであーる、正解はこっちであーる、というふうに決めつけるのは、やっぱりちょっと、なんかアレだなと思うわけです。
そりゃあそうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないじゃん?
そこで衝撃的に、バビ・バビ・バビッと春先のウンコのようにひらめいたのであります。
「せんぶあわせて、大乗である」
仏教だけでもいろんな宗派があります。
真言宗、天台宗、禅宗、日蓮宗、浄土宗など。
どうしてこんなにいろんな宗派が生まれたかと言うと、おそらく「多様性を受け入れるため」だと思うのですよね。
ほんとうに、この世界には、いろんなひとがいるのです。
時代がちがったり、時代が同じでもちがう考え方や経験をしていたり、好き嫌いがあったり、ひとそれぞれの特性があったり。
そういうことに柔軟に適応してきた結果が、宗派ということなんじゃないか。
だからいろんな宗派が存在していることについて「これがいちばん正しい」とか「あれは間違っている」とか「どれが正しいんだ」なんて考えるのは、あ、あの、そ、その、もう、ビョーキである。
だれがなんといおうともう、ビョーキなのです。
んなわけあるか。
いろんな人がいるのに、おなじカタで適応できるわけねーじゃんか。
チョコレートが好きだっつってんのに、カツ丼食わせてどうする。
ソバアレルギーだっつってんのに、無理やり食わせてどうする。
腹減ってんのに、水飲ませてどうする。
そこで、ぼくなりに各宗派が「どういう人に合うか」ということを考えてみた。
そうしたら、ぼくの長年の謎も花粉症の鼻水のように溶けた。
・真言宗系統 — 芸術的なことが好きなひと、向いているひと
・禅宗系統 — 体育会的、ストイックなことが好きなひと、向いているひと
・天台宗 — 芸術的、学究的なことが好きなひと、向いているひと
・日蓮宗 — 極限状態にある人、学究的なことが好きなひと、向いているひと
・浄土宗 — 極限状態にある人
謎だった、ぼくはなぜか、どうしても「真言宗系」が好きなのです。
合ってる間違ってるじゃなくて、すごくシンパシーを感じる。感動する。
そして「禅宗系統」が、ものすごく性分に合う。
これも教義なんか正直あんまよくわかってないけど、考え方が合う。
ぼくの仕事はデザイナーで、もともとアート系、クリエティブ系のことに、すごく関心があります。
真言系って、とてもアーティスティックなのです。
曼荼羅の色づかいとか、声明の音とか、梵字の統一感のあるバランスとか、儀式の荘厳さとか、とにかく芸術的な部分でのレベルが異様に高いと感じます。
感動するのです。
いいなあ! ほんと、いいなあ! すげえなあ! って思う。
またぼくは、ガキのころから、わりとガッツリ柔道をしてきました。
禅宗系統って、じつは体育会とすごく似ているのです。
ていうかもう「体育会そのもの」といってもいいかもしれません。
人に頼るのではなくて自分自身を高めていかなければならないとか、規律を守らなくてはいけないとか、邪念を捨てて集中しなくてはいけないとか、ハラをすえよとか、ビビってんじゃねえとか、よけいなこと考えてんじゃねえとか、気合入れろとか、人よりもむしろ自分に負けるなとか、アタマでっかちにるなとか、掃除しろとか、道具を大切に扱えとか。
厳しいといえば厳しいし、小うるさいというえばそうだけど、もうまったく体育会と同じことを求められて、だからぼくにはなーんにも違和感がありません。
そんなもんあたりまえやんけ、とさえ思う。
だからすごく安心できるんですよね。ほっとするんだ。
根が体育会で、アート好き。
ぼくが禅宗と真言宗に惹かれてしまうのも、当然なのではないか、と思ったのです。
さてそこで「大乗」という考え方です。
大乗というのは、「すべてのひとを救う」という考え方です。
となってくると、ですね。
「この世には、いろんな人がいる」という真実からした場合、すべての人を救うためには、どうすれば最もアルゴリズム的に効率が良いだろうか。
そんなもん、「いろんな受け皿を用意しておく」ですよね!
いくら大きくても、たったひとつの受け皿しかなければ、それに「合わない」ひとはもう、恒久的に救えないのです。
だから「これが最勝最高、これしかほかに道はない」みたいな硬直したことを言っていたら、それはもう大乗ではなく、まごうことなき小乗なのであります。
「合う」ひとしか、救えない。
おそらくこれに疑問を持って、いろんな宗派が生まれたんだと思います。
それぞれの人にあった、いろんな修行法がある。
唯一の方法を押し付けるのではなく、臨機応変に、いろんな方法で導いていく。
人を変えようとするのではなく、メソッドのほうを、変えていく。
だから思った、真言日蓮天台禅念仏、そのどれが真の大乗仏教なのか、とかじゃなくて「ぜんぶあわせて、大乗」だったんだ、って。
人間って、いろんな人がいるだけじゃなくて、同じ人でも性格や興味は不変ではないんですよね。つらいことの種類もその年や置かれた環境によって変わる。
「それに応じた」ソリューションがあって、しかるべしです。
なのに、「これしかないのっ!」なんて言われたら、それからはみ出した「落ちこぼれ」はどうするんだ。
そんなもん知るか、そういうやつぁ、そもそも仏縁がないんだ、しょうがないんだ、かわいそうに、なんて言っちゃったら、もう大乗仏教じゃないよね。ヒドイよね。
鎌倉時代って、飢饉や戦争が多発していて、すごく厳しい世の中だったんだそうです。
極限状態にいるひとが、とても多かった。
教育なんてやっている場合じゃないし社会が不安定だから、貧富の差も知的水準の差もひどかった。
どうしようもないこと、がとても多かった。
だから「念仏」が生まれたんじゃないか、と思うのです。
もうこの世には期待なんかできない、来世に救いを求めたい、っていうような。
現代でも絶望的な苦境に立たされているひとはいます。
そういうひとに、
「いいや。死んでから仏に会ってどうする。この世で仏に会え」
などと悠長なことを言ったって、伝わらないですよね。
それは正しいかもしれないけど、でも明日死ぬかもしれないっていう大病に犯されているときに難しい哲学をいわれたって、じゃかあっしゃ、そのうち殴るぞ、ワーレー! っていわれて、終わりです。
できるひとはいいけど、できないひとは、どうするんだ。
だからそんな極限状態にいる人には、念仏とか唱題のような「だれでもできること」を教えてあげて、今生と来世の幸せを仏様が約束してくれてますと、あなたは大丈夫ですよと、そんな「とってもやさしい」方法論が生み出されたのではないでしょうか。
まさに、仏教です。
体力や生活などそこまで極限状態になくて、また精神的にもそこそこ強く、複雑なことも理解できる人には、密教系などが普及したのかもしれません。
衣食足りれば芸術的なことにも関心が向くし、知的好奇心も強くなります。
余裕があるから、「もっとさらなる高み」を目指したいという気持もある。
そういうひとは、ただ座って念仏しなさいといわれても、うーん、どうだかなあ、ってなる。
経済的に裕福だった唐の時代の中国や、日本の貴族の間で密教が普及したのも、そういう背景があるのかもしれません。
極限状態ではなく、やや余裕があるけど、真理は求めたい。そういうひとに、密教はうってつけだったのかもしれません。
知的好奇心が強いひとに「秘密」の二文字は、素っ裸のオネーチャンより魅力的なのであります。
また非常に学究的なひともいます。学者さんとか、先生のような。
博覧強記で文字や文献から真理を追求したい、できる、という人もいます。
そういうひとたちには、天台や華厳ような系統が合っているのかもしれません。
学際的、学問的に追求していく。
非常に高度で難しいから、難易度は超弩級、ハードモードであります。
一生かかっても理解できないかもしれない。
でもそういうのにコーフンするひともいます。
知的好奇心が強いというターゲット特性が近いからでしょうか、天台華厳は密教とも相性が良いです。
「シンプル・イズ・ベスト」を好むひともいます。
潔さとか、清潔さとか、透明さとか、そういうのに異様に惹かれる。
ややこしい教義とかにはあまり関心がなく、なんかもっと「根源的なこと」とか「透徹感」を感じたい。
神秘的なことにはあまり関心がないというか、むしろ嫌いだったりする。
でも、自分自身をストイックに高めていくことには関心が強い。
そんなひとは禅宗系になるのかな、と思います。
禅宗系って、もう宗教っていう感じじゃないんですよね。
哲学ともちがうし、なんていうかほんとうに、スポーツをしない体育会、みたいな。
複雑なことに疲れてしまって、もっとすかっとした感じに憧れる、というのもあるかもしれないですね。
虚飾を取り去って核のようなものを直接触りに行きたい、というような。
だからわりと頭が良くて理屈好きなひとは、禅については「なにいってるかわからん」ってなると思う。
でも相性がいいひとは「いや、これがいちばんわかりやすいやんけ。シンプルで」ってなる。
追い詰められて不安を抱えていると、人間は排他的になります。
人によっては選民思想とまではいかないが、自分は特別な存在であると考えたくなる。
その特別感こそが、パワーの源になる場合がある。
じぶんが一番正しいと思い込みたいし、我が国や、わが組織は最高であると思い込みたい。
勇気がほしい、自信がほしい、つよいこころがほしい、こころの結界がほしい。
そういうひとにはエネルギッシュな日蓮宗がピッタリかもしれません。
排他的ではあるが、その「気の強さ」に限っては、最高レベルにあると思います。
また人によっては、宗教というものじたいが合わないこともあります。
もっと合理的で現実的で、再現性の高い客観的で確実な保証を望む。
それが最も高いレベルの安心を与えてくれる。
そういうひとには、科学という道がある。
ほかにも音楽、芸術、文学、魔術、スポーツ、創作、お金儲け、いろいろある。
ひとそれぞれ、その年々に、それをしているときに無上の喜びと安堵感を得られて、またそれを通じて学び、悟ることがある。
人によって求めるものもちがえば、才能も、興味も、好き嫌いも、いろいろちがう。
そこへ「これしかないよ」っていうソリューションの提示のしかたは、はっきりいって幼稚を通り越して
横暴です。
最終的なゴールは、おなじ。
だけどそこへ向かう道のディテールはいろいろ、ちがう。
それが「大乗」なのだと思いました。
諸行無常、変化する人間だからこそ受け皿も変化する、生まれてくる。
遍界かつて蔵さず。
「どれが大乗なのか」「どこにあるのか」ではなくて、いま、この現状こそが、すでに大乗だった。
は、はやく大きな船を探して、それに乗らなければ! じゃなかった。
もう、乗ってた。
なにも隠されていない、すべてはいまここに、目の前にそのまま開陳されてる。
ぼくたちにするべきことがあるのだとしたら、「合うものに沿う」っていうことだけなのかもしれない。
どんな銘刀でも、形の合わない鞘には入らないのです。