不安を愛すべし

パニック障害になったとき、「不安遺伝子」というのを知りました。

詳しくは知らないけど、「SS型」という遺伝子を持っているとセロトニンがあまり出ないようで、不安を感じやすくなるのだそうです。

パニック障害になるひとは、このSS型の遺伝子を持っているからだという話もあります。

また日本人にはそもそもこのSS型がとても多いらしい。

 

そのときは、思いましたね。

「よけいな遺伝子だなあ!」

そんなものがあるから、具合悪くなっちゃうんじゃねえか。

ヨーロッパ人はこれが比較的少ないらしく、そういえばイタリア人を始めヨーロッパの人って明るい感じはあります。アメリカ人なんか、もしかしたらちょっと病気なんじゃないかなっていうぐらい明るくて元気なひとがいたりする。

いいなあ、白人。

陽気っていいよなあ、うらやましいなあ。

 

このSS型遺伝子は過去に先祖たちが「痛い目」に会ったからできる、という説もあるようです。

たとえば戦争とか飢饉とか疫病とかものすごく怖い目に何度も何度も会ったことで、生存確率を高めるために備わっていくのだとか。

日本人のみならずいわゆるアジアの黄色人種はSS型を持つ人の割合が多いらしいです。

黄色人種は苦労をたくさんしたのかな、とも思うけど、単純に「新しい人種」だからだそうです。

黄色人種ってじつは「ニュータイプ」なんですよね。

最新型ということは、追加機能もたくさん持っているわけで、そのひとつがSS型遺伝子らしい。

 

コロナウィルスの件で、ぼくは不思議に思いました。

日本は言わずとしれた高齢化国家で、高齢者人口の比率は世界一。

第二位が、イタリア。

イタリアでコロナウィルスによる死者が非常に多い原因の一つはこの高齢化も関係しているのでは、と言われています。

むろん医療体制の特性などがいちばんの原因かもしれませんが、高齢化も無視できません。

その点、日本は「世界一の」高齢化社会なのに、案外死者がすくないのです。

これももちろん、医療体制の整備がまずは関係しているとは思います。

でも、それにしても、比率からしてちょっと少なすぎやしないか。

同じ疑問を持つひとも多いようで、なかには「隠蔽しているのではないか」などという陰謀論を妄想する人もいるらしい。

 

ここから先は、ぼくの勝手な妄想を多分に含んでいます。

もしかして「不安遺伝子」も関係しているんじゃないかな、と思ったのです。

「病気が蔓延している!」

そういう話を聞くと、日本人はみんなビビるのですよ。

テレビでは日本の政府の動きを批判したり、こんな状況なのに花見をする人たちやイベントを強行するひとたちをやや悪しざまにスクープしていることもありますが、実際にはけっこうみんなまじめに言うことを聞いていると思います。

中にはまったく頓着しないひともいるけど、マスクをしたり手洗いやうがいをしたり、できるだけ無駄な外出を控えているひとのほうが、なんだかんだいって多いと思います。

イベントも、まじめに中止・延期していますしね。

その点スペインなんかがそうですが、ヤバいっつってんのに「女性開放デモ」を強行して一気に2000人以上のクラスター感染をやらかしたりしています。

 

考えてみると、「陽気で、社交的で、細かいことを気にしないで、自己主張が強く、心配が少ない」っていう陽性の性格が日本でもてはやされるようになったのは、じつはあの「バブル期」以降なんですよね。

じつはたった20年やそこいらの価値観でしかありません。

それまでの日本はむしろ陰気で、社交性はそれほどでもなく、繊細で、寡黙で、思慮深いことはむしろ美徳とされていました。

大人しく落ち着いていることは、とても立派なことだと考えられていたのです。

 

「日本人はムラ的だ」とか「横並び意識が強い」「チャレンジ精神が少ない」「争いを避けようとする」「自己主張が弱い」とかいって、西洋的な指向性と対比し注意喚起するような言説も目立ちます。

もしかすると、ここ最近の「陽性称揚説」は、西洋に対する劣等感の裏返しのようなものだったんじゃないかな、と思ったりします。

考えてみれば、不安が強いからこそ、周囲との軋轢を避けようとするのです。

無駄な争いはできるだけ避けて、みんな全員が長生きできるように計らっているともいえます。

挑戦をあまりしないのも、むだなことを言わないのも、自己主張を抑えるのも、すべてはその目的に合致しています。

ニュータイプとして進化してきたその豊富な機能群を適切に使った場合、結局は日本人のように「おとなしい人」になっていくのではないでしょうか。

 

ベースは、おとなしい。

そこへ「旧機能へのロールバック」を求められた場合、どうなるだろうか。

本質的には挑戦を好まないのに、挑戦することが美徳とされる。

本質的には無口なのに、饒舌であることを求められる。

本質的には孤独を好むのに、社交性の高さを強要される。

自我はそれほど強くないのに、自己主張することを強要される。

 

横並び意識の強さが原因となって異質排除の原理が働き、それがイジメや過労死につながると指摘するひとがいます。

でももしかすると、そのことだけが原因なのではなく、背景に上記のような「ロールバック強要」というのもあるのではないか。

われわれ黄色人種は、最新の種族です。

言い方を変えれば、逆にもっとも長く生きてきた古い民族といえるかもしれません。

進化の先端にいるということは、選別された機能群を持っているということ。

人間もトシをとり苦労をすればするほど慎重になっていくように、民族もそのようになるのではないか。

 

せっかく数万年かけて蓄積してきた機能群を、ここ数十年の需要だけをもって「もとに戻せ」と言い始めたのです。

これはあまりにも無謀、横暴、愚鈍な考え方なのではないか。

となりの青い芝生にあこがれて、自分自身を否定せよというのです。

 

以前は確かに、思いました。

この不安を感じやすいココロがうらめしい。

でも上記のようなことを考えて、問題になっているのはこの不安になりやすい特性のほうではなくて、むしろそれを否定し、隠蔽し、むりやり変化させようとしている「行為」にあったのではないか、と思うようになってきました。

 

そのままで、よかったんだ。

そのままが、よかったんだ。

 

ぼくのなかには確かに、生まれてからの数十年で培ったことがあります。

いっぽうで、数百万年かけて培ってきたこともあります。

このどちらが、強力であろうか。

このどちらが、天地自然に合致しているであろうか。

 

考えるまでもないことだ。

両方、大切なのです。

両方をひっくるめて、ぼくなのです。

 

心配性であることを、誇りにしようと思いました。

これはぼくの先祖たちが苦労をしてきた証である。

それをほんのここ最近の状況に甘えくさって、不安なんかいらない、陽気こそがすばらしい、自己主張こそが重要だなんて、とんだオトボケであります。

不安を、愛そう。

慎重を、よろこべ。

これは数百万年分断なく相承された血脈の証なのであります。

 

 

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