煩悩即菩提

やっぱり、統一された解釈はないのでありますね。

微妙に解釈がちがう。

「煩悩即菩提」

 

原始仏教では、煩悩はダメなものであるとされていたそうです。

そんなものがあるから苦しみが生まれるわけで、煩悩なんてものはゴミ箱にポイしちゃいなさい、という考え方だったようです。

なので原始仏教系はかなりルールが厳しくて禁欲的なのだそうです。

 

いっぽう大乗仏教では「煩悩即菩提」といって、煩悩を頭ごなしに否定しないようになったようです。

さて、この煩悩即菩提については、同じことばでも宗派によって微妙に違うようなのです。

大きく分けて、

「煩悩→菩提」

「煩悩=菩提」

のふたつがあるようで、「即」というのを「したがって」と解釈するか「イコール」と解釈するかの違いなのかもしれません。

 

ほとんどの宗派は「煩悩→菩提」という解釈を採用しているようです。

浄土宗では「煩悩を否定しなくても、煩悩の支配から離れることができる」という解釈のようで、根源的にはやっぱり煩悩はイクナイというニオイがして、そういうものから離れるメソッドを提供します、という感じがする。

なので分類的には「煩悩→菩提」になるのかもしれません。

 

日蓮宗では「煩悩があるからこそ菩提がある」つまり典型的な「煩悩→菩提」の解釈のようです。

煩悩という毒も、うまく使えば薬になるという考え方のようで、これは創価学会系でも同じ解釈のように思われます。

天台系も同じような解釈かと思われます。

 

禅宗も「煩悩かあるからこそ悟への機縁がもたらされる」という感じで、これも「煩悩→菩提」の部類になるのかな、と思います。

しかし道元は晩年、煩悩に対しては否定的な態度をとっていたという話もあります。

 

密教系では「煩悩→菩提」と「煩悩=菩提」が混在しているように見えました。

もしかしたら天台密教は「煩悩→菩提」で、真言系密教は「煩悩=菩提」なのでしょうか?

ちなみにチベット系の密教は「煩悩=菩提」のようで、ほんらい密教というのは性欲をも肯定し、むしろ性欲それそのものが悟りの境地である、と考えられているようです。

しかしこういった考え方は下手をすると欲望や煩悩の奴隷になる可能性も孕んでいて、ひじょうに危険でナイーブな部分ではある。

だからこそ「秘密」だ、という話を聞いたことがあります。

ヨガなどのインド思想にある「シャクティ」という考えと一体になって発展してきた考え方なのかもしれないですね。

 

別件で、ぼくは座禅を毎日するようになって120日目あたりに、ふとそのようなことを感じたことがあります。

むろん悟ったとかそんな話ではなくて「なんかそんな気がする」程度のことで、まあこれも一種の妄想なのかもしれません。

ぼくが感じたのは「煩悩=菩提」のほうです。

欲はコントロールするとか利用するとか昇華するとかスイッチだとかいうことではなくて、「欲そのものが摂理そのものである」ということを思った。

この宇宙のはたらきが顕現したのが欲である、というわけです。

それまで座禅の本をいっしょうけんめい読んだりしていて、「欲はコントロールしなければならない」とずっと考えていたのに、唐突にそんなイメージが出てぼくは驚きました。

その後気がついたのは、これは密教の知識から得られたものなのだろうということでした。

それまでチベット仏教の本を読んだことがあったので、記憶にはなかったのですがそれがフト意識の表面に上がってきただけだと思います。

だから悟ったとか感得したとかいうコワイ話ではないです。

 

それよりも興味があるのは「煩悩=菩提」ということを思ってからとても気分がラクになったことです。

おそらくはそれまで「コントロールせねば」とか「抑え込まなければ」とか「無視しなければ」みたいな、いわば否定的なことを考えていたのが開放されかたらではないか、と思います。

欲そのものがイノチそのもので、イノチの働きそのものなんだから、コントロールするとか抑え込むとか、そんなゴチャゴチャ弄り回すのはイノチの否定だ。

だから欲は、そのままで良いのである、そう思うと、じぶんを悪者にしなくていいなと思えたのです。

 

じつは先日から「大日経」を読んでいるのですが、やはり密教では「煩悩=菩提」の立場が強いのでは、と感じました。

はじめて読むのにあんなにすんなりと読めて、違和感を感じないのは、もしかしたらあのとき感じた「欲こそが摂理である」というアイデアがあったからかもな、と思いました。

 

やはり仏教の世界は深遠です。

煩悩即菩提、というたった4文字のことでさえ、さまざまな解釈があるようです。

やっぱりぼくなんかには、仏教は理解できないかもしれませんね。

でもいまのところはとりあえず、「煩悩=菩提」の立場で解釈してみようと思います。

そのほうが正邪とか勝劣とかいう二元論から脱却しやすそうかなあ、と思ってます。

せっかく生まれてきたんですものね。

みんなが生まれ持ってる部品にケチをつけたり、必要悪だとかいったり、爆弾みたいに考えるのは、なんだかカミサマに失礼なような気がして。

一見不要そうでも、これはこれですごくだいじな機能で、それに良し悪しいうのは人間の脳みそが足りないだけかもしれないな。

いまのぼくに想像できるのは、せいぜいここまでです。

 

  • ぽぽんた より:

    密教好き˘ ˘*?な てらちゃん 
    理趣経は およみになりましたか

    https://piicats.net/risukyou.htm
    【初段 (大楽の法門) 金剛サッタの巻】
    のあたり とか ね

    欲望…
    過ぎてしまえば
    ただ それだけ って
    きも します

    ただ
    みおくるだけ
    とらわれない

    みたい な

    (_ _)

    • TERA より:

      コメントありがとうございます。

      はい、理趣経も読ませていただきました。

      大日経より難しかったですが、おなじようなことが書いてありましたね。

      欲望は、過ぎてしまえばただ それだけ
      ただみおくるだけ、とらわれない

      まさに、そのとおりですね。

      最近は、欲望に囚われること自体も、またいいかなって思うようになってきました。

      それが人間だし、囚われる自分や人を間違っているとか未熟だとか考えることじたいが、もうイデオロギーにとらわれているような気がして。。。

      囚われようが、囚われるまいが、実際には大きな問題じゃないな、とも思います。

      欲望を切り離せばラクになるんじゃなくて、欲望に囚われないと思うココロそのものから離れることも、だいじなんだと思ったりします。

      仏教や哲学がなくたってじゅうぶんに生きていけますしね。

      そういったイデオロギーに囚われている原因そのものを、客観的に観察していこうと思っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です