先日仏教の歴史的なことを調べていたとき、その複雑怪奇な状態とそれぞれの哲学の奥深さに触れて、ぼくは思ったのであります。
「もういいぜ」
パニック障害になってから、仏教的なことに関心を持つようになりました。
まあ、この病気ってのは「死ぬかもしれない」っていう恐怖が常につきまとうから、生命をテーマとしている仏教に親和性を観じるのは不自然なことではないのかもしれません。
またぼくの母親が昔創価学会だったこともあり、幼少のころから「謗法」や「四箇格言」などの、どちらかというと脅迫系の思想にも触れていました。
ヨガもするようになって、インド哲学を学んだりもしていました。
歴史という時間軸の中でぼくが知ったこれらのイデオロギーたちがどのような変遷をとげてきたかの概要を知り、そしてそれらの複雑な相互影響を見ていくうちに、思った。
こんなことを勉強したって、ぼくの悩みは消えない。
学問として学ぶことには大いに意義はあるが、それはあくまで学問である。
それは何かを解決してくれるヒントになることはあるが、万能ではない。
また場合によっては、このイデオロギーを所持することこそが、目かくしをすることさえある。
「もういいぜ」
ズビビビと天啓のようにこの感覚が落ちてきてから、気がついたのです。
ぼくはいつのまにか、この世の中のことだけでなく、じぶんの体調についてまで、仏教やインド哲学などのイデオロギーを通して見るようになってしまっていた。
色眼鏡でモノを見るようになってしまっていたのです。
これでは、まったくもって本末転倒であります。
ぼくの最近の不調は、立ちくらみや、息苦しさです。
このことについて、ヨガ的なイデオロギーから解決を試みようとするようなっていた。
あるいは仏教的なイデオロギーから観察をしようとしていたこともあります。
「もういいぜ」
これが落ちてきた瞬間、ぼくの身の回りの世界は突如としてシンプルになった。
呼吸がラクになった。
そんなにややこしく考える必要なんかない。
ものごとは、なるようにしてなっていることが、ほとんどなのだ。
在宅ワークで、朝から夕方まで、コンピューターをチコチコ触っています。
プログラミングというわりと頭を使うことをしたりもします。
そして作ったものをお客さんの指示によって修正していきます。
・こまかいことをずっとしている
・ひとの指示を受けて行うことの比率が多い
このことが、ぼくの不調の最大の原因だったのでした。
デスクワークだけが問題ではなかったのです。
もともとあまり神経質ではないのに、神経質さを要求されることをやる。
そして「修正」という、いわば「ぼくの意図に反すること」を日夜行う。
最初に設計をしたりデザインをしたりするときは、ぼくはあまり調子は悪くないのです。
しかしプログラミングと修正にはいると、俄然イライラしやすくなって、いろん不調が噴出するようになります。
あたりまえですね。
これようするに、ストレス。
創造的なことをしているときは、ストレスは溜まりにくいです。
でも非創造的、あるいは破壊的なことをしていると、ストレスが溜まっていくのです。
お客さんの意見を聞き、それに沿うことばかりしてる。
それもずっと家の中で、椅子にすわって、チコチコチコチコチコチコやってる。
こんなもん、だれでも気が狂うわ!
煩悩とか阿頼耶識とか、謗法とか真理とか、そんなもん全然関係なかったのです。
疲れていたんだ。こころが。
仏教的な、ヨガ的なイデオロギーに接したことで、ぼくはかえって、自身への客観性を喪失していたのです。
「ストレスなわけが、ねーじゃんか」
とさえ考えたこともあります。
そりゃあ、そうです。
へんなイデオロギーに偏ってそれを通して自分を見るばかりで、透明な空気をとおして自身を観察していなかったのです。
はっきりいって「観察」というほどのことでさえないのです。
こころのメガネをはずしてしまえば「あたりまえのこと」が、真っ先に飛び込んでくるのでした。
観察する必要さえ、なかった。
そしてお医者さんはやっぱり、正しいことを言っていた。
「遍界かつて蔵(かく)さず」とは、まさにこのことだった。
この言葉だって、禅に凝っていたらまったくちがう意味で考える。
経典ではこころの色眼鏡を外すことはできず、知識もこころの色眼鏡を外すことはできない。
むしろそれらを「すてる」ことをしないと、こころのメガネは透明にならないのでした。
これに個人差はない。
知識こそが曇りであり、透明な知識とは知識がないことである。
知識が不要なのではない。
それは役に立つこともある。
しかし万能ではなく、役に立つということは、毒にもなるということである。
その毒とは、こころを汚すということだ。
いくら美しいテーマであっても、知識やイデオロギーは、それそのものが曇りである。
金箔で窓を覆っても、部屋は暗くなるのである。
イデオロギーこそ、断捨離しよう。
見えないのは、目が悪いのではない。
なにかが遮蔽しているだけである。