あっ。
そうか!
仏教について「もういいぜ」と感じた感覚。
ネットで中観や唯識というようなことを調べていたときに感じた、違和感。
中観や唯識の考え方でネット上で議論をしていることに感じた、いらだち。
これらはすべて「経験ではない」からだった!
中観や唯識というのは、大乗仏教の中核的な思想です。
そして仏教徒は、悟りの境地を目指すものである。
ということは、仏教思想とは畢竟、悟りの境地を表現していることになる。
柔道の背負い投げを、本で学べるか。
剣道を、本で学べるか。
空手を通信教育だけで学べるか。
茶道を本だけで学べるか。
ダンスが本だけで上達するか。
絵を描くことが、読書だけで上達できるか。
学べない。上達しない。
なぜか。
「経験」が必要だからです。
知識も経験の一助になる……か?
思ったほど、ならない。
柔道の本をいっさい読まなくたって、柔道は稽古することで強くなれる。
しかし逆に、稽古をあまりしないで柔道の本ばかり読んでいても、まったく強くなれない。
ちなみに悟りも「経験」なのだそうです。
ということは……本では学べない、ということではないか!
そして、知識はほとんど、役に立たないということでないか!
独学で学ぶことは、不可能に近いではないか!
独学で本で学ぶなど、完全に、無理ではないか!
それでなにかを悟ったとしても、それはほぼ100%、かんちがいである。
ただのオナニーである。
本を読んで覚えた背負い投げが、実践でまったくもって通用しないのと同じである!
いらんのである。
本をいっしょうけんめいに読んで得たイデオロギーなど、ぜったいにまちごうとるんである。
だから、「もういいぜ」だったんだ。
知識が役に立つ世界と、立たない世界がある。
ぼくはいま、どっちのことを、しようとしているのか。
このへんをちゃんと見てからやらないと、まったくよけいなことをしていることになる。