ヨガを断捨離する

仏教じたいを、捨てたのです。

そうしたら身の回りのことがとてもあかるく、シンプルになりました。

まるで曇っていたメガネを拭いたようです。

 

抱えているイデオロギーを、次から次へと捨てていこうと思うのです。

よけいな知識を持っていることで、あたりまえのことが見えなくなっている!

見えること感じることを、いちいちぜんぶいっかい「イデオロギーというフィルター」をカマしてから認識していたからです。

そのまま見ればそのままわかることなのに、不安という触媒が「判断材料」を希求していて、その判断材料にうってつけなのが、イデオロギーでした。

 

しかし、捨てるものの、否定はしないでおこうと思うのです。

創価学会を断捨離しても、創価学会そのものや、創価学会を信じている人を否定しないように。

仏教を断捨離しても、仏教そのものを否定したり、それを信じている人を否定するわけじゃない。

ぼくのこころから、追い出してしまうだけ。

掃除だな。

 

次は、ヨガです。

かれこれ5年ちかくやってきましたが、ぼくはそろそろ、ヨガを断捨離しようと思う。

これもほかのイデオロギーと同じく、否定するのではありません。

ヨガそのものは、とてもよいメソッドだとは思います。

好きか嫌いかでいうと、好き。

好きだからこそ、捨ててしまおうと思うのです。

 

ヨガというメガネ。

「体調をすなおに見ない」というケガレがあるのです。

チャクラであるとかエネルギーであるとか、呼吸とか骨格とか、そういう雑多な知識があるせいで、自分自身が本能として感じることを、大脳新皮質がいちいち「解釈」しやがる。

よけいなことを、しやがる。

これを、捨ててしまうのだ。

 

ぼくはたまに異様に息苦しくなることがあって、これはおそらくデスクワークのせいです。

そこでまずぼくは、「呼吸が浅いからだ」と判断する。

よって、「呼吸法をしよう」と考え、実行する。

また「血行不良である」と判断する。

そして「各種アサナを行おう」と考え、実行する。

 

なにも間違ってはいない。

でも、間違っている。

なにが間違っているのか。

考えてばっかりおるのである。

 

ヨガを捨てたら、ものすごく簡単だった。

息苦しくなったとき、なにが必要か。

呼吸や姿勢の改善、血行促進、それは合ってる。

でもそのために、なにをすればいいか?

 

「ノビとアクビ」だったのです!

 

これは、そう、イヌでもネコでもしています。

だあれも教えていないのに、かってにやってる。

ずっと寝ていたときとか、じっとしていたあとには、必ずやる。

 

ノビとアクビは、本能に書き込まれているデフォルトの「リブート機能」なのです。

ぼくはこれを使わないで、本やネット、教室で習った「人工的動作」で代替しようとしていた。

なんで、代替する必要あるん?

そのまま、つこうたら、ええやんけ!

 

そうしたら、がぜん調子が良くなりました。

「今から伸びをしよう」

とか

「今からアクビをしよう」

とかでは、ないのです。

そんなことをしたら、ヨガとおんなじになる。

そうではない。

ヨガ的なイデオロギーを、捨てるのである。

つまり、なにも考えないようにする。

そうしたら、長いこと座っていたりしたら、立ち上がるときに自然と「それ」が出る。

 

ヨガなんてものは、所詮「ノビとアクビの補佐」に過ぎない。

その補佐にすぎないようなヤツを主人みたいに扱うから、おかしなことになっていくんだ。

よけいなイデオロギーがあるばっかりに、基本的な機能を封印してしまっていた。

あるいは「自分の意思で」、それを使おうとさえ考えていた。

それは、しちゃダメなのっ!

越権行為なの!

イデオロギーは本能を封印し、本能を自己都合で利用しようとする。傲慢である。

 

健康に良いことは、健康にわるい。

この真意は、まさにこれだったのです。

健康に関する知識をベタベタ心の中に貼り付けるから、大事な機能にさえフタがされてしまう。

人間はイヌやネコと似たようなところが多分にあります。

彼らはよけいなことを考えないから、必要なとき、必要な方法を、自然に繰り出す。

しかし人間は、いちいち考えるの。

そのことで、不具合が貯まることがある。

呼吸が止まることさえある。

賢いから、考えるのではない。

アホだから、考えるのである。

いちいちアホな「大脳新皮質」がおせっかいをする。

しょうもないやつのくせして、カオだけ大きいのである。

まるでうっとうしいオバハンみたいである。

おまえはもう、引っ込んどれ!

からだは、そのままでちゃんと生きるように、健康であるようにできている。

ほうっておいても、だいたいのことは、ちゃんと勝手にやってくれるんである。

その勝手を許さないのはいつもイデオロギーをはじめとした「知識」なのだ。

 

積み重ね、なんて、もうやめちまおうと思う。

積み重ねが必要なのは、二十歳まで。

二十歳を過ぎたら「積み減らし」を考えないといけない。

どんどんどんどん、捨てていくんだ。

よけいな知識と、考えを、捨てていくんだ。

積み減らしは「罪減らし」なんですよね。

禊は「身削ぎ」なんだ。

 

生まれたまんまで、基本的には、だいじょうぶ。

だいじょうぶなように、できていた。

それをいちいち歪ませて拘束したのは「知識」という鎖であります。

とくに健康関係の知識は、下品なほどに太い鎖であります。

そんなもん、捨てちまえ。

 

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