校則という愛

先日高校の先生をしている友人と話していて「なるほどなあ」と思いました。

校則って「愛」のひとつだったんだ。

 

最近テレビやネットでは「ブラック校則」という名前もつけたりして理不尽な校則に異を唱えるのをよく見かけます。

コロナウィルスが蔓延しているこの時期、マスクが足りていないというのに「マスクは白でないとダメっ!」ということで、黒いマスクをしてきたら校則違反として罰せられるなんていう話がありました。

あるいは髪の毛がもともと茶色い子なのに、校則違反になるから黒く染めてきなさいという指導があったり、天然パーマなのにストレートパーマをかけさせられたりして、完全に人権侵害をしている校則もあるそうです。

また下着は白でないとダメ! っていう校則があって、それをチェックするために女子生徒のスカートをめくって男性の先生がチェックするという、まことにうらやましい、あ、まちがえた。まちがえちった。ほぼ完全なセクハラを行っている学校もあるそうです。

確かにそんな話を聞くと、

「先生というのは、ほんとうはバカなのではいか」

と思わず思ってしまいます。

 

校則というと、どうしても学生が被害者だというほうに視線が向いてしまいます。

それはたぶん、自分自身が学生のときに感じた理不尽のせいかと思われます。

実際にはむしろ先生のほうが被害者かもしれません。

というのも、校則なんてものがあるせいで先生のしごとが増えてしまうのです。

正直なところ、先生だってイチイチ学生の服装なんてチェックしたくないんですよね。

違反があったらイチイチ指導しなくちゃいけないし、カリキュラムの消化やモンペ対応でただでさえクソ忙しいというのに、よけいな仕事が増えてしまう。

学校の先生には過労死が意外と多くて、ウツ病になるひとも多いそうです。

その背景には「校則指導」もうっすらと影を落としているでしょう。

カワイソウなのは学生ではなく、むしろ先生のほうかもしれません。

 

そもそも校則というのは、学生を守るためという側面が大きかったのだそうです。

制服を指定したり髪型を規制するのは、経済格差などでオシャレができない子どもに劣等感を抱かせないためという目的もあるのだそうです。

小学生の頃ならまだしも思春期以降はどうしてもオシャレということに関心を持つようになります。

そうするとお金持ちの家の子は自由にオシャレができますが、貧乏な家の子はできない。

このことがきっかけでイジメが起きたりもするので、中等教育以降にある程度服装や行動に制限をかけておくことは、平等な生活という点で有意義なのだそうです。

また服装や髪型をある程度統一しておくことで、個々人の日々のメンタルの変化を確認しやすいという副次的効果もあるのだそうです。

全員が同じということよりも、むしろ「同じ子が毎日同じ髪型と服装をしている」ということにポイントがある。

心理学でいう図と地の理論みたいなことで、毎日同じであるからこそ、違っているところが目立つ。

なので先生は学生の表情や顔色などの変化に気が付きやすくなる、ということです。

 

またこれは一般にも言われることですが、「秩序を守る」ということは社会生活を送るうえで非常に大事なことです。

みんな自由勝手でいいよ、なにしたっていいよ、というのでは、たいへん具合がわるい。そんなにうまいこといかない。

だから規則を守るというクセを若いうちにつけておくことは、その子のその後の人生においておおきなメリットになることは間違いがありません。

 

……というふうに「本来は」、校則というのは指導者の学生への「愛」に満ちたすばらしい発想を含んでいたようです。

これはおそらく本質的にヒトとヒトの本質的な差異をある程度ゆるすことができる日本人ならではの「懐の深さ」「やさしさ」ということもあったのだと思います。

ヤオヨロズのカミを認め、外来文化も拒否せず、すべてを包み込む度量を持った文化があった。

校則ということが日本で特異的に発達したのは、貧乏人や弱者にも平等な学生生活を送れる配慮ということが自然発生的に生まれたからではないでしょうか。

 

だから問題は校則そのものの可否よりも、こういった「理念」のようなことが消失してしまったところにあるのかもしれません。

さいきん、社会が「幼児化」しているような気がするのです。

社会全体が幼児化しているし、おかしな校則がそのまま残っているのは先生が幼児化している。

とくにインターネットが普及してからは、ある特定の視点だけからの解釈を大声で呼ばわる人がいると、それに呼応することで「バズって」しまうことがある。

そすうると数の理論でその言説があたかも正しいかのように見えてしまうことがある。

「校則は悪だ」というような方向に、社会が進んでいく可能性がある。

校則が消滅したら、本来校則が持っていた「愛」もまた、消滅してしまうということです。

ものごとには必ず、よい側面があればわるい側面もある。

その「わるい側面」に執拗に執着し、それをもって全体を悪だと決めつけたとき、物事は「全崩壊」してしまうのですよね。

 

そしてしまいには「校則の理念とやらを生徒や社会にちゃんと伝えていない学校側に問題があるんだ、先生の怠慢だ」などと言い出してしまう。

これもまた、幼児化しているのです。

とにかくだれか責任者を定義してそれを攻撃し、責任者に改善要求をすることで「停止」してしまうのですね。

わるいやつはアイツなんだから、アイツにやらせろや。ワシャしらん、みたいな。

これではまるで、11歳ぐらいの子どもの発想ではないですか。

社会というのはそんなに幼稚なことではなかったはず。

子どもは世の宝だから、先生だけにその管理責任があるわけではないです。

社会全体、おとな一人ひとりにもれなく責任があったはず。

 

社会の幼児化は「単純化」から生まれると思うんですよね。

善悪二元論みたいな思想とか、一神教的な考え方とか、わかりやすさは正義とか。

この複雑な世界を複雑なまま受け入れず、わざわざ単純化してわかりやすくしてから受け入れてしまう。

そんなことをしてしまったら、そのひとのココロの中ではこの世界が「単純化されたもの」になってしまうではないか。

それは実物の世界とは似ても似つかぬ、単純化された世界。ファンタジックな世界。

単純化された世界と現実の世界には必ず齟齬があって、だからいちいち怒り出す。

単純化や記号化は、思春期前の脳みその機能なんですよね。幼児脳。

「わかりやすさ」「便利さ」を追求しまくったせいで「複雑なものを複雑なまま理解する」機能が低下していったのかもしれないですね。

 

昔の人は、いいことを言ってたんですよね。

「テレビばっかり見てたら、バカになるぞ!」

ホントだった。

だってテレビこそ、ものごとを「わかりやすく」説明する機能の権化だからです。幼児化の大王である。

わかりやすく噛み砕いたことを見聞きして理解したということは、じつは実物はまったく理解していないということである。

これからは、言い方が変わりますね。

「ネットばかり使ってたら、バカになるぞ!」

単純化、記号化ばかりが理解じゃない。検索が上手なのは賢いのではなく、器用なだけである。

複雑なことは複雑なまま理解してこそ、ほんとうの理解になる。

これには、鍛錬が必要だ。

ネットばかり使っていると「さがすちから」は強くなっても「つくるちから」「かんがえるちから」「なやむちから」「きづくちから」は低下していく。

これもまた、脳の幼児化を加速する。

 

 

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