「独自理論」を捨てる

座禅にはとくに功徳はないが、掃除には功徳がある。

禅ではそういうふうに言うのだそうですが、ほんとにそうだなあと思います。

 

毎日掃除をするようになって、半年ぐらいになります。

その過程で、ほんとうにいろんなことに気がつきました。

そう、掃除というのは「気づき」を与えてくれる。

 

最近掃除を通じてキッパリと気がついたのは、ぼくはとても思い込みが激しいということです。

そしてそのことが影響して「独自理論」ということに執着してしまう傾向が強い。

じぶんで考えた理屈に拘泥してしまい、事実がきちんと見えなくなってしまっているのです。

 

掃除を始めた頃、ぼくは古式ゆかしい「ホウキとチリトリ」で掃除をしていました。

掃除機だのクイックルワイパーだの、そんな最近のテクノロジーなど、しゃらくせえ。

じぶんの手で、丁寧に掃除をすることこそに、意味があるんだ!

それに掃除機はうしろから風を吹き出すから、その風でホコリを巻き上げてしまうではないか。

それでは、掃除をしているのではなく、ホコリを撒き散らしているだけである。

……というまさに「独自理論」を展開しておりました。

 

しかしホウキとチリトリでは、結局あまりきれいにならないことに気が付きます。

ホウキを使うとただホコリを巻き上げているだけのことが多いのです。

掃除をしないよりはマシ……どころか、むしろ「やぶ蛇をつついた」ようなことで、吸わなくてもいいホコリを吸ったりして、かえってカラダにわるいことをしていた。

そこで「フロアクイックルワイパー」というものを知り、とくにフローリングの床の場合にはこれのほうがきれいになるということに気がつきます。

ホコリやチリなどを細かい繊維が静電気の作用も利用して吸着してくれるのです。

これにはドライタイプとウェットタイプがあり、ともに大量にホコリを取り除くことができます。

そこで通常はドライタイプを用いて、週に1回はウェットタイプで掃除をするようになりました。

 

しかしまた、気が付きます。

ウェットタイプを利用しているのだから、雑巾がけはそれほど必要ないのではないか。

だって濡れた布で床をこすりまわっているのだから、雑巾がけと理屈は同じではないか。

ここでまた、そのように「独自理論」を展開するのであります。

しかしこれも、掃除を続けていくうちに気が付きました。

たまたまフロアワイパーを使用したあとに雑巾がけを行ったとき、驚くほどバケツの水が濁ったのでした。

掃除をあまりしていなかったときと同じほど、汚れが取れるのです。

そう、つまりフロアワイパーというのはあくまで掃除の「補助道具」でしかないのであって、これさえしておけば十分というモノではなかったのです。

そこで、週に1回は雑巾がけをするようになりました。

 

さて、そこでまた新たな展開があります。

全部屋の床を雑巾がけをして、しっかり乾燥したあとに、たまたま掃除機をかけたことがありました。

掃除機は例の「独自理論」から、じゅうたん以外では普段ほとんど使用していませんでした。

驚愕の事実を知ってしまうのです。

フロアワイパーをかけ、雑巾がけをしたそのほぼ直後に、ダストボックスをカラにして掃除機をかけた。

すると、「1週間掃除をしていなかったほどの」ホコリがダストボックスに溜まっていたのです!!

 

これは、どういうことなのか。

そうなのです!

フローリングの床といえども、フローリングワイパーと雑巾がけ「だけ」では、それほどきれいになっていなかった、ということです。

これは明らかな事実です。

やはり、ときに掃除機を使うことは必要なのだということを思い知りました。

 

で、そのような「気づき」を繰り返していくうちに、ぼくの掃除の方式は「ごく一般的」なものになっていきました。

つまり、「上から下へ」はたきをかけて、換気をし、フローリングワイパーでざくっと床のほこりを拭き取ってから掃除機をかける。

そして週に1回程度は、雑巾がけをする。

この方式は、ほとんどの家で行われている「ふつうの掃除」です。

なにも変わったことのない、変哲のない掃除方法。

でもこれが、結局は最も合理的で、無駄のない、持続可能な最大効率を持った掃除方式なのでした。

 

掃除機を「しゃらくさい」と思う、ぼくのこころ。

ここに、最大の躓きがあった。

じぶんで考え、独自理論を編み出し、それにもとづいて行動をする。

この一文だけを読めば、すこし「良いこと」のような感じもあります。

しかしそれはまさに妄想なのです。

 

「独自理論に頼る」というその行動のウラには「一般論を信用しない疑念」が存在している。

そして「なにか変わった方法を求める」という、強欲つまりこころの炎症がある。

「昔ながらのことのほうが良い」という、「現世否定」がある。

総合すると、こころのなかに「いまの否定」という病を抱えている。

 

「常識を疑え」というのは、ただしいです。

でも「ただしいこころで」疑わないと、それはただの疑念で終わるのです。

まったく間違った方向へ進んでいってしまう。

常識を疑うためには、疑うだけの素養が必要なのです。

素養もないくせに、いっちょうまえに疑うなんて、それはただの「ココロの歪み」である。

 

遍界不曾蔵(へんかいかつてかくさず)。

ぼくが好きな禅語のひとつですが、これは「あらゆることは何も隠されておらず、すべて目の前にそのまま開陳されている」というほどの意味です。

つまり「特殊なこと」「知られざる秘密」というようなことは、じつは妄想である。

眼横鼻直……眼は横につき、鼻は縦についている、そのような「あたりまえのこと」こそに、この世の秘密が「そのままに」あらわれている。

 

最初こんなことを聞いたって、「うそつけ」と思った。

でも、それはほんとうでした。

確かに、「ぼくが知らないこと」というのは、たくさんあります。

そして意外なソリューションということが皆無であるというわけでもありません。

新発見、新理論、それは確かに、存在する。

 

でもおそらくこの世の8割ほどは「あたりまえ」で動いている。

そしてその8割のことで、じゅうぶんにぼくたちは生きていける。

変わったことをする必要などまったくない。

そして「困っているとき」「悩んでいるとき」こそ、この「あたりまえ」に即座に帰還して、まず足元ををしっかり見直すべきである。

そうすることでまた、8割の問題が解決する。

 

独自理論。

考えてみれば、この世の「おかしなこと」は、すべてここから生まれているのでした。

カルトはすべて「独自理論」をベースに置いている。

コロナウィルスに「青のり」が効くとか、トマトを食べればダイエットできるとか、水素水で病気が治るとか、パワーストーンで運勢が変わるとか、ベッドの位置で金運が変わるとか、カードをめくれば天使がメッセージをくれるとか。

気色の悪い新興宗教も、政治思想の右も左も、ぜんぶそうだ。

そのような荒唐無稽の話はすべてが「独自理論」なのです。

ある特定の、すぐれた感性あるいは知能を持った誰かが、新規に発見したと称する理論。

しかしそれら「独自理論」の99%は未完成であり、発展途上にあり、なかにはまったくの妄想もある。

そのような不安定なものに、わざわざ頼る必要が、どこにあるというのか。

8割のことは、いま、ここにある、あるいはずっと前から言われてきた、あるいはいま一般的に普及している「ふつうのこと」が、ソリューションなのである。

 

あたりまえのことを、あたりまえに。

これをしないから、道を踏み違えるのだと思います。

変わったこと、へんなこと、めずらしいこと。

もちろん、それが「わるい」わけではない。

「いらない」のである。

そのようなことを強く希求している自身の「こころの状態」を観察してみれば、よくわかる。

ようするに、不安なのであるね。

あたりまえのことをあたりまえにしてこなかったから、軸を失ったのだ。

そして失った軸が「別の世界」にあるのでは、と夢想をするのである。

んなわけねーだろうが。

ここにある。

必要な解決策の多くは、いまここに、そのままポツンと、さみしそうに座っている。

 

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