これまで仕事でいろんな「新規事業」を考えては実行してきたけれども、うまいこと行ったものはあまりありませんでした。
強引に進めていったものほど、うまくいかなかった。
うまいこといったとしても、軌道にのるまでムチャクチャ大変だったりして、精神的にも身体的にも人間関係的にも疲弊することが多かった。
新しいことを手掛けるより、目先のことを粛々とやっていったほうがうまく行くことが多かった。
だからそのうち新しい事業をすることに消極的になって、しまいには「いまあることで満足しなきゃいけないんだナ」なんて、いっちょうまえに悟ったふうなことを考えたりもしていました。
ふしぎなものであります。
そんなふうに考えていたのに、このたびのコロナ禍で思いついた新規事業は、まるでうそみたいにスムーズに進んでいった。
入り口が、ちがったのです。
ぼくは新規事業についてはいままで「ビジネスモデルの構築」ということに躍起だったし、「稼ぐこと」に力点を置いていました。
しかし今回は、そこが入り口じゃなかった。
「だれかを助けよう」
っていう入り口から入った。
ぼくは、恥じたのです。
このたびのコロナ禍で大打撃を受けている飲食店さんのために、本来なら有料で受注するはずの「テイクアウトできます」っていうポスターを無償でダウンロードできるようにしているデザイナーさんがいる。
イラストレーターさんや印刷屋さんも、それぞれなにかを無償で提供している人が思ったより多いことに気がついてしまったのです。
デザイン業界に限らず、本来は有償で行うサービスを無償もしくは格安で提供している会社もたくさんあります。
ぼくは、恥じた。
とても、恥じた。
ぼくはいったい、なにをやっているのだろう。
「この先どうなるのだろうか」と心配してみたりするだけで、だれか困っている人の助けになるようなことをまったく考えていなかった。
あるいはこのブログで「どうせやるなら楽しく自粛」みたいなことや、「考えたってしょうがないさ、これはこれでいいんだよ」みたいなことを書き、オナニー的悟りの境地に安住したりもしていた。
あるいはおぞましいことで「人々の意識が変わるよい機会だ」などとさえ考えたこともある。
つまり、じぶんのことばっかりだった。
なんのために、生まれてきたんじゃ。
ラクするために、生まれてきたんじゃなかろうが。
だれかをラクさせるために、生まれてきたのであろうが。
しかるになんじゃ?
結局じっとしたままで「これで少しは世の中は良くなるんじゃないかなあ」だなんて、いったいどういう神経構造をしておったら、そんなことを考えるんじゃ。
「いままでの世の中の誤った価値観が是正されるよい機会だ」などと、いったい何者のつもりなのか。
困っている人を具体的に救えないようなものが、ぜったいに言っても考えてもいけないことである。
ナメとんか。
今じっさいに、困っているひとがいるのである。
「ぼくにできることは、自粛することだけだから」
「自粛もりっぱな、人助けだから」
は?
なんじゃい、そのショボイい人生は。
そんなんで、ええんか?
恥ずかしくないんか?
恥じたので、考えた。
ぼくが持っている技術で、なにかできることはないか。
救うとまではいかなくとも、ほんのすこしでも「お手伝い」ができることはないか。
いっしょうけんめい、考えた。
そして、座禅した。
そしたらふと、「落ちてきた」。
さっそく関係各位に相談をしたら、
「それ、いい!」
ということになって、あっというまに、何社もの協力者があらわれた。
そしてそのためのシステムを、ぼくはたった1日で作ってしまった。
あっというまに、動き出した。
いままで行ってきた新規事業は、動き出すまでに何ヶ月も、へたすると数年かかることさえあった。
それが今回は、たった1日で動き出した。
電光石火ともいえるスピードだった。
そこでもうひとつ、反省をしたのです。
そうか。
ぼくが手掛けてきた事業に欠けていたのは、これだったのかもしれない。
ぼくは、ぼくのために、仕事をしてきました。
ぼくやぼくの家族の夢のため、儲けのため、安心のために、働いてきた。
「社会のために」
この観点が、抜けていた。
だから、うまくいかなかったのかもしれない。
商売の基本とは、なにか。
稼ぐことでも、信用の獲得でも、知識でも、経験でもない。
「困っているひとを、さがすこと」
これだった。
そして困っている人への、愛があること。
知識や経験は、愛の補佐役にすぎない。
なんのために、仕事をするのか。
「稼ぐため」だけでは、人を動かすことはできないんですね。
「社会貢献」という哲学がなければ、ひとだけでなく、じぶんのココロも動かないのでした。
発想も、固くなる。
指向性が「守り」だからかもしれません。
じぶんのことばかり考えていると、生き方が守りになる。
社会貢献を目指したとき、生き方が攻撃に変わる。
儲けるとか、実現するとか、達成するとか、そういうことをさておいて、「だれかのために」をテッペンに据えた時、なんだかほんとうに「世界が変わった」気がした。
あきらかに、何かが変わった。
そして言葉が、落ちてきた。
「世界をヨシヨシする生き方」
戦う生き方ではなく、
抵抗する生き方ではなく、
防御する生き方でもなく、
克服する生き方でもなく。
人びとを、社会を、世界を、ヨシヨシする生き方、ヨシヨシする仕事。
怒るのも、イライラするのも、不安なのも、性格や考え方が原因じゃなかった。
ましてや環境や病気のせいでもなかった。
「じぶんのこと」ばかりを考えているサインだった。
社会があるから、じぶんがいる。
社会がしあわせなら、ぼくもしあわせ。
人間とは、そういう生き物である。
自利の行為より利他の行為のほうが圧倒的に満足度も幸福度もパフォーマンスも高くなるという社会心理学実験の結果もあります。
人間とは、そーゆーふーに、できている。
だから「コロナ禍」はもしかすると、人類全員が幸福になれるチャンスなのかもしれない。
みんな困っている、ということは、「助けてあげるべき対象」がいっぱいいるということです。
困っている人がいなければ、手助けもできない。
些細でもいい、チンケでもいい。
「ひとのため」がたくさんできる、天与の機会ともいえますね。