いわゆるトンデモ系の日ユ同祖論的なアレに類するものかもしれませんが、そんなぶっ飛んだ感じはない良い本でした。
まあ正直ところどころ「ホンマけ?」と眉に多少ツバを塗りたくところも無きにしもあらずですけれども、「キリスト教伝来は必ずしもザビエルからではない」というのはとても納得ができました。
そして渡来人の秦氏がほんとうにアッシリア人だったのか、ほんとうに景教徒(ネストリウス派キリスト教)だったのかということはさておいて、日本文化は案外古代キリスト教の影響を受けているかもしれないというのは「そりゃそうかもしれん」とは思います。
中学時代、修学旅行で高野山に泊まったことがあります。
ま夜中になぜかふと目がさめて、みんなが寝静まっている中、宿坊からこっそり抜け出して外に出てしまったことがあります。
真っ暗な山の中を徘徊していると、お坊さんたちが修行なのか儀式なのかわかりませんが、ろうそくを持って鈴を打ちならし、歌をうたいながら一列になって真っ暗な山道を歩いているのが見えました。
そのときぼくは、確かに感じました。
「まるで賛美歌のようだ」
クリスチャンではありませんがなぜか賛美歌が好きでふだんからよく聴いていたのですが、その感じととても似ていると感じました。
あとで知ったのは、それは賛美歌ではなく「声明」だということでした。
小ぶりなお堂の前でいろんな儀式をしているのをこっそり木の陰から見ていたのですが、今思い出しても、あれは「ミサ」によく似ていたと思います。
中学生といえど仏教とキリスト教はまったく違うものであるということはさすがに知っていたので、その奇妙な類似点に不思議を感じました。
神秘的で、荘厳で、なにやら異次元の別世界を覗いてしまったようで、怖いような、でもわくわくして、たいへん心地よい感動を覚えたものです。
ぼくが仏教とりわけ密教というものに強い関心を持つようになったのはこれがきっかけでした。
教義や思想なんかはよくわからないけど、その荘厳さに心打たれたわけです。
その後長じて大乗仏教のことを図書館などで勉強するようになって、思ったことがあります。
「これは果たして、仏教といえるのだろうか」
とくに日本における大乗仏教においては、禅宗を除くすべての宗派はもはや「仏教」とはいえないものなのではないか。
仏教の究極目標は「悟りを得る」はずなのに、すべての宗派が「救済」を謳っているからです。
とくに浄土系にいたっては個々人の悟りに関する修行階梯などほぼ皆無で、阿弥陀様という人智を超越した絶対的存在に「救済されること」がメインテーマになっています。
真言宗は悟りを得るというよりは「至高の存在と合一する」という考えのようで、これは日蓮宗でもやや近い感じで「真理と合一する」という指向性が見られ、唯一禅宗だけが「自己練磨による悟り」ということをメインテーマに据えているようにしか見えませんでした。
はて、これらはほんとうに、仏教なのか?
大乗仏教はそれを信じているひとからすれば「仏教」以外の何者でもないのだろうけれども、客観的には仏教とはもはや言い難いものに変質していると思うのです。
歴史的にも大乗仏教はヒンドゥー教などと混交してその神様をガッツリ取り入れているし、阿弥陀様にいたってはインドの神様どころか西方の異教(ゾロアスター教)の神が原型という説さえあります。
極楽や地獄の思想だって本来は仏教にあったはずもなく、間違いなくゾロアスター教や原始キリスト教など中央アジア由来の思想の影響を受けていると考えざるをえません。
仏様にせよ原理にせよ、なんらかの高次元の存在に「救済される」という指向性じたいが、もはや仏教とは言い難いもののような気がしてなりません。
むろんこれは、だからといって「間違っている」と言いたいのではありません。
合っている・間違っているではなく、ただの整理整頓の問題です。
ぼくが想像している以上に「強い混交」があったのではないか、と思うのです。
法華経にもキリスト教の聖書との類似点が散見されますし、おそらくは中央アジア近辺で非常に活発な文化混交があり、仏教の衰退を救うべく意図的にもさまざまな思想を吸収していったのだと思うのです。
そしてそれが伝わってきた日本は、シルクロードの終着地ですから、文化だけでなく人種的にも多種多様な人が入ってきているはずです。
ネット右翼が嫌う半島系人種については、日本人は25%以上その遺伝子を持っています。
耳垢が乾燥していたら、ほぼまちがいなく朝鮮半島系の血が入っている。
中国人や韓国人に似ているというのならまだしも、純粋に日本人でハーフやクオーターでもないというのにどういうわけかすこし白人っぽい風貌をしている人がいます。
東南アジアっぽかったり、黒人ぽい顔をしているひともいます。
医学的にも日本人はかなり多種多様な人種の遺伝子を持っているそうです。
「万教同根」
「仏基一元」
ぼくはこの考え方に、とてもシンパシーをおぼえます。
母親がむかし排他的な創価学会の会員で、幼少のころから学会員をとりまく世界が「プチ宗教戦争」のような様相を呈しているのを見てきました。
そして、みんなどうして仲良くなれないのだろうとも考えました。
「うちだけが正しい」
数千年をかけて複雑に混交してきた人類の文化について、このようなバカっぽい「純粋主義」はもはや完全に無効なのではないのか、と思うのです。
すべての人も、宗教も、根源的には同じである。
これがもし証明されたなら、しょうもない価値観の喧嘩など不要になると思うのであります。
日本のすべての仏教には、仏教とキリスト教、その他思想の要素がすこしづつ混じっている。
もしそうならば、「うちの宗派が正しい」なんてことは、もう主張しなくてすむと思うのです。
ぜんぶ正しいし、ぜんぶ間違っているのであるから。
ていうか、合ってる・間違ってるの問題ではないのである。
「そういうものである」で、もういいのではないか。
この本を読んでいるとそんな気分が膨らんできて、とっても楽しいのです。
ぼくは仏教もキリスト教もイスラム教もユダヤ教も、ぜんぶ好きです。
真言宗も天台宗も禅宗も日蓮宗も浄土宗も神道もぜんぶ好き。
勉強すればするほど、それぞれの宗教宗派には「いいところ」と「へんなところ」があって、その「いいところ」と「へんなところ」が、なぜかまた「そっくり」であることがわかる。
宗教どうしで喧嘩をするなんて、バカなこどもの兄弟喧嘩のような気がしてくる。
すこし視点を変えるだけで「いちばんのなかよし」になれる素養を孕んでいるはずなのに。
違う違うといっているのはぜんぶ、枝葉のところばかりである。
「これだけが正しい」だなんて、幻想だ。
そう思えたら「合ってる・間違ってるの水平線」から一気に解脱できるのでは、と思うのであります。
この本は、そんな理想世界を妄想させてくれる、気持ちがいい本でありました。