キリスト教へのシンパシー

なんなのであろうか。

昔から不思議に思っていることがあります。

なぜぼくは、キリスト教に対するシンパシーが強いのか。

 

仏教や神道への関心については、あるていど説明ができます。

幼少の頃母親が創価学会員で、その教義をよく聞かされていたのですが、

「それは違うのではないか」

ということが非常に多かった。

勉強会と称する集まりで質問をしても怒られるだけで、だあれもなんにも答えてくれないので、図書館などで創価学会が禁ずる他宗の教義や神道などについて、自分で調べていくようになりました。

そんなことをガキのころからしていれば、仏教や神道に対してそれなりの関心を持つのはべつに不思議ではありません。

 

当時ぼくに関係している創価学会のひとたちは、仏教の宗派や神道については何かとうるさかったのですが、キリスト教についてはとくに言及していませんでした。

信者数も少なく、あまり接点がなかったからかもしれません。

だからぼくはとくにキリスト教のことを図書館で学んだことはありません。

しかし不思議なのが、ぼくは聖書を買っているし、たまに読んでいる。

そして近所のカトリックやプロテスタントの教会の集まりにも何度か単独で参加しているのであります。

かってに行って「お邪魔していいですか」と許可を得て、神父や牧師の話を聞いていた。

なにが目的だったのか全然覚えていない。

動機がないくせに、妙な行動力である。

ぼくの周囲にクリスチャンはいませんから、だれかに勧められたわけでもないし、なにか悩みがあって相談したり、祈りにいったりしたわけでもないです。

なにをしに行ったんだ。意味がわからない。

ただ、なんとなく、行った。

 

クリスマスの日に、まだ8歳ぐらいの娘をつれて教会に行ったこともあります。

まあこれは多少意図があって、クリスマスというのはプレゼント交換をするお祭りとかではなくて、もともとは宗教行事だったんだということをガキのうちに見せておこうというのがありました。

ていうか、そんなことを思うことじたいが、ちょっとヘンではある。

 

教会のたたずまいや賛美歌、そういうものに対して、おかしなほどのシンパシーをおぼえる。

これは昔からで、みんながプリンスだのレッド・ツェッペリンだのマイケル・ジャクソンだのの音楽を聞いているころ、ぼくはこっそり「グレゴリアン・チャンツ」という賛美歌集をウォークマンで聞いていたりした。

おかしい。

学校もミッション系ではなく、周囲にクリスチャンもおらず、とくに勉強したこともなく、そんな映画やドラマを見たことも特になく、参加した結婚式は神道式がほとんどだった。

神戸という土地柄もあるかもしれないけど、こどもの頃に仲が良かった外国人の友だちはイスラム教と道教で、クリスチャンの友達はいなかった。

 

「いわれのない関心」

なんだろう。前世は「修道士」だったのだろうか。

まさかな。

まあ興味関心というのはえてしてそういうものだから、気にする必要はないのかもしれない。

そのうち、ああこれが理由か、ということがわかる日が来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。

なんだこの話。

 

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